第41回 託言力

寒風に耐えて弥生の空に香りを放つ7分咲きの豊後梅 撮影 三和正明


 
 毎年思うことなのですが、新年が明けてから3月までの3ケ月間ほど、我々日本人の先達が自然界との繋がりを意識し、そこから茶目っけたっぷりのアイデアやさまざまな深い教訓を集中的に学び取ってきた時期は、他の月にはないのではないでしょうか。

 まずはお正月のおせち料理。昔から、お正月に供されるおせち料理の食材には、その形状や名称によって暗示される縁起の良さや、人生への処し方、人としてかくありたいと願う生き方などが籠められていて、人々はそれらを食することでそのエキスが我が身に授けられることを願いつつ、その美味を味わってきました。

 この伝統は、今日でも各家庭の三が日の食卓に反映されていることから、私たちにもお馴染みの光景となっていますが、例えばその形状から連想される縁起物の代表格として上げられるのは「数の子」でしょう。その無数の卵が凝縮されて醸し出す味の美味しさはおせち料理になくてはならないものですが、そこにはその形状から想像される子宝や子孫繁栄への願いが強く籠められていたのです。同様に「海老」もその形状から腰が曲がるまで長生きできるようにとの思いが籠められていましたし、「ごぼう」には地中深く根を張って生きる力を授かるようにとの願望が宿っていました。

 当て字や語呂合わせで願望を表現したおせちも少なくありません。「黒豆」は、魔よけの意味のある黒い色に守られて新しい年にもマメに働きマメに暮らせるようにとの象徴でしたし、「昆布」はヨロコブに通じる幸せ願望の代表選手でした。更に、もともとの役割から願望に繋がっていった食材の代表格は「田作り」でした。そこには、昔から田植えの肥料として用いられてきた乾燥鰯を食することで食糧に恵まれた生活を希求する願いが籠められていましたし、これを「ごまめ」と称する地域では、当て字・語呂合わせ系の表現として「五万米」(五万石の米)という文字を当てたと聞いたことがあります。いずれの食材にも、昔の人々の願望が健気に籠められていて、その素朴さとほほえましさについつい笑みがこぼれてくるのを禁じ得ません。

 確かに今の感覚で見れば、ただの言葉遊びに過ぎないようにも映じますが、医療も科学的知識も今とは比較にならないほど乏しかった時代を生きていた人々にとっては、命や健康と食糧とを結びつける縁起的関係を大切にすることによって、神様から「いただける感謝・授かる幸せ」を深く実感しながら、毎年のお正月を穏やかでつつましやかに迎えられる歓びに一家の全員が浸っていたのは想像に難くありません。

 同様に2月の節分も、各家庭にあってはとても大切な行事でした。ここにも沢山の語呂合わせが籠められることで難儀を払おうとした先人の知恵が生きていたのです。豆まきの豆は主要な食糧品であった大豆が使われますが、そこには霊の力が宿るとされ、それを煎って(射って)不幸や邪悪の象徴である鬼の目(魔の目=豆)に命中させ、魔を滅ぼす(魔滅=豆)という「豆尽し作戦」で鬼を退治せんとする「語呂合わせ」のオンパレードでしたが、この行事の爽快さは子供心にも楽しみの一つであり、豆まきを終えたあとに数え年分の豆を食するちょっとした厳かさも子供心には新鮮に感じられたものでした。

 考えてみると、お正月のおせち料理での(黒)豆は、一生マメに暮らせるように、との願望が籠められていたのですが、2月の節分の豆となると上述のように武器に一変して鬼を退治するという全然違った意味に活用されていくというのも、日本語ならではの絶妙な融通無碍性の成果と、感心せざるを得ません。

 ところで、お正月のおせちや2月の節分で楽しんだ自然と人との一種の言葉遊びが、2月の中旬から3月上旬になってくると突然その様相を異にするようになります。それまでの語呂合わせ的楽しみに終始していただけの長閑な感性が、大自然の営みの中に宿る命の実相との交流を通じて、自らの人生の深い意味と真髄を学びとろうとする髙い精神性の発露へと飛躍的な進化を遂げ、自然界とのコミュニケーション能力に長けた日本人の感性がひとつの髙みへと発展・昇華していくようになるのです。

 この異相次元への飛躍をもたらした仕掛け人(生命体)とは一体誰だったのでしょうか。言うまでもなくそれは、この時期に麗しい香りと花を四方に放つことで、私たちに強烈な存在感を感じさせる「梅」でした。

 その端緒は1月半ばから可憐な花を咲かせる小梅から始まります。この小梅が奏でる序曲によって哲学的思考への道案内が静かにスタートし、やがて2月中旬から3月初旬にかけてさまざまな種類の梅が開花していくにつれ、梅花コンチェルトは最高潮に達します。ただ、梅の花の満開は、桜とは違って決して派手で華やかな雰囲気を醸し出すものではなく、むしろ静謐で深みがあり、凛として清楚であるがゆえに、梅の開花に触れた昔の人々は、冬の厳しさにひたすら耐えて遂に美しく気品に満ちた開花へと至る梅のいかにも哲学的で高潔な精神性と、清楚にして驚異的な生命力に深く感動し、そこに潜む大自然の摂理を自らのあるべき生き方や教訓の糧として強く学びとってきたのです。

 受験時代、梅がもつこの特性を如実に示す代表的な漢詩の部分的な訳文に初めて触れた私は、自分自身の甘さ、生ぬるさに強い衝撃を覚えたことを今でもこの時期になると強烈に思い起こします(尤も、その時は実際に強い衝撃を受けはしたのですが、所詮それはその場限りのことで、それ以降今日に至るまでは全くいい加減な日々を送ってきたことを、ここで正直に告白しておきます)が、その漢詩の一節とは、西郷南洲(隆盛)公が、ご自身の甥っ子の留学渡米に際して作詩され贈られたと言われる五言律詩の後半の部分で、そこには自然から学びとるべき人生の奥義が見事に表現されておりました。

耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗しく)
 厳寒の雪に耐えてこそ梅の花は見事な花を咲かせる
経霜楓葉丹(霜を経て楓葉あかし)
 厳しい霜を凌いでこそ楓の葉は鮮やかな紅葉となる
如能識天意(もしよく天意をしらば)
 もし私たちがこうした天の意図を承知しておれば
豈敢自謀安(あに敢えて自ら安きを謀らんや)
 どうしてわざわざ自分で安きに流れようとするだろうか、いやすまい。

 梅の開花に己が人生を重ね合わせて、ついつい安易に流れる自らの弱さを戒めよ、と甥っ子に諭された南洲公のこの漢詩に、さぞかし梅も我が意を得たりと胸を張ったことでしょう。

 もともと梅は中国原産のもので、先ずは彼の地において多くの人々がこの木の荘厳さを愛でてきたわけですが、それに触れた当時の日本人の先達は、元祖中国以上にこの木を愛し、この木に自らの深い思いを託すに至りました。日本人がそのような思いを抱くに至った底流には、もともと日本にあっては自然界と我々自身とが境目なしに繋がっているという先祖伝来の感性と鋭敏な意識が流れていたからこそなのですが、その脈々たる感性のおかげで、日本文化の質の高さが世界に広く認められるに至った事実を私たちは決して見逃してはなりません。

 今、改めて、そのような素晴らしい感性を練磨してきたキーファクターを考えた時に、脳裏をかすめたのが「託言」という言葉でした。広辞苑では第一義的な意味として「かこつけて言うことば」との説明がありますが、私自身はより積極的に「何かに言葉を託すことを通じてこの世の摂理を表す行為」と理解し、日本人はその名手ではないか、と考えたいと思うのです。

 実際、日本語と言う言語もこの「託言」には非常に便利なところがあり、これを駆使してものごとの背後に潜む真実や願望を伝える行為を自家薬籠中のものとすることで、日本人は類まれな才能を発揮してきたように思います。そしてその「託言力」こそが、日本の「言霊」の原点になっているのではないか、と想像しているところです。

 そんな素晴らしい日本語ですが、昨今のテレビや巷での浅薄な言葉の氾濫、乱れた会話によって加速される品の良い語り口の消滅、ゲームへの熱中によって助長される深い思考能力の崩壊、等、この国をこの国たらしめてきた香り高さが急速に消え去ろうとしている現実を思う時、この先、日本は一体どんな国になっていくのか、いたたまれない思いに苛まれてしまいます。

以上