第5回 午年の示唆

 

御所から出発していく葵祭の人馬の勇姿

御所から出発していく葵祭の人馬の勇姿  撮影 三和正明

新年 明けましておめでとうございます。

  今年の干支は「午」。古い中国の暦の十二支にあてがわれた動物は「馬」。今年の年賀状には威勢のよい馬の姿や、「馬力アップ・開運アップ」、「天馬の速さと勢いにあやかって元気な日本を築こう」といった言葉が随所に踊っていました。

 ところで、その馬。本来は大変俊敏な動物であるにも関わらず、「馬の耳に念仏」や「馬耳東風」、さらには「馬齢を重ねる」等の諺に象徴されるように、およそ正反対の愚鈍なイメージとして語られることが多く、実に不思議な気がします。また、「馬鹿」や「馬脚を現わす」は、語源的には馬自身に何の過失も責任もないものですが、馬にとってはマイナスイメージに響くようで、誠に気の毒なことです。

 が、実は、このパラドックスにこそ、ウマ年の今年、私達が心しなければならない警句が秘められているのです。

 とりわけ「馬の耳に念仏」「馬耳東風」という二つの諺。これらは共に、人が大切なことを馬に話しても肝心の馬は素知らぬ顔で意にも介さない表情をしていることから、「人の意見や批評などを心に留めずに聞き流すこと」(広辞苑)を意味する諺となっていますが、だから馬は愚鈍な動物なのだ、などとは決して思ってはいけない、という底意こそが、ウマ年の今年の大切なポイントなのです。

 実は、馬がおよそ意にも介さない表情をしているのは、その話の中身が馬には分からないからではなく、逆に、話しかけている人の話が、賢い馬からすれば全く低レベルで聞くに堪えない内容だ、というふうに考えなければいけないのです。

 人はいつのまにか自分が一番偉いと信じ込むようになる不遜な生き物です。本当は自分の話が取るに足らないレベルなのに立派なことを話しているように思い込み、その立派なはずの話を「馬耳東風」的に聞いている相手を低く見下してしまうという悲しき性を持っているのが人間なのです。

 そうだからこそ、馬耳東風の趣で話を聞く相手に接した時は、自分の話が実はつまらないのではないか、自分のコミュニケーション能力が不足しているから相手が興味を示さないのではないか、自分のレベルが相手よりもはるかに低くて呆れられているのではないか、というように考え、謙虚に自己チェックを行う好機なのだと考えねばならないのです。

 常に自分を正当化し、自己中心的にしか物事を考えない人には、成長する力も、人心を掌握するリーダーシップも身についてはこないでしょう。そういう人は、自分よりもハイレベルの人を遠ざけ、常に心にもないお追従をいう人だけを周囲に配する結果、正しい解や真実の声を得ることができなくなり、裸の王様の道を歩むようになりましょう。そうならないために、ウマ年の今年、賢明な馬は、「常に謙虚な姿勢で、世界に目を向け、よく勉強し、レベルアップに努め、自らの研鑽を怠らず、人の意見に真摯に耳を傾けることによって、『馬耳東風』然としている人を単純に『理解力不足』などと片付けてしまうような愚に陥らないように」と私達に教えてくれているのです。

 まずは、自分に厳しく、謙虚であれ。図に乗るな、相手を見くびるな。少しくらいウマくいったからと言って勝ち誇るな、自分は何でも出来るなどとは決して思うな。「馬耳東風」に込められた底意をよく噛み締めて、自分の言動に真摯に向き合っていくのがウマ年という今年の年回りの示唆だと心得よ ━ 馬はそう言おうとしているのではないでしょうか。

 考えてみれば、歴史に名を残してきた先人たちは、たった一言でものごとの本質を語り、それを読み聞きする人々は、その短い言葉の中に真理を感じ取って感服してきました。が、今、ものを語ることを生業としている人々の多くは、自ら深く学び取った真実を独自の視点と語り口で的確に表現する努力を怠り、誰彼の差なく同じ内容、同じレベルの話を饒舌に語っているだけの時代になってしまったような気がしてなりません。その結果、言葉は軽くなり、人の心に響かなくなりました。この風潮に歯止めをかけ、常に自分のレベルアップに全力を投入し、深く独創的にものごとを考え、その思いを的確に相手に伝える研鑽を厳しく自らに課していくことで、頭脳明晰な馬にさえ耳を傾けてもらえるような自分へと成長していくことこそ、今年のテーマにすべきではないでしょうか。

 私は馬に聞きました。「それにしても人の話を聞く時にはもう少しカシコそうな顔をしたらどうなの」と。馬いわく「能ある馬は顔で隠す」。その答に、私はふと大石内蔵助の綽名「昼行灯」を思い起こした次第です。

(平成26年1月1日 記)