第9回 「こどもの日」考

京都本隆寺本堂横にある「夜泣き止めの松」

京都本隆寺本堂横にある「夜泣き止めの松」  撮影 三和正明

 

 今日から5月。ゴールデンウィークを構成する5月の休日の中でも、もっとも親しみやすいのはやはり「こどもの日」でしょう。街中には大きな鯉のぼりが舞い、家の中には鎧兜の武者人形や金太郎などの勇ましい五月人形が飾られて、子供達を祝福する行事が各地で行われるなど、この日ばかりは子供が主役の楽しい一日となります。

 が、考えてみれば、この日を「こどもの日」と呼ぶのは少し妙な気がします。鯉のぼりも武者人形も男の子の健康な成長を祈る象徴であって、女の子にはいかにも肩身が狭いからです。女の子は3月3日のおひな祭りで祝福済みだから問題はない、と言われればそれまでですが、それなら何故3月3日も休日にしないの、と男女平等を標榜する女性群からはお叱りが出ないとも限りません。

 その謎は、古代中国から奈良時代に日本に渡ってきて以来、先の大戦までの長きに亘って連綿と続いてきた5月5日の男の子のための「端午の節句」を、戦後(1948年)「国民の祝日に関する法律」を制定して、「こどもの日」と呼ぶようにしたことに由来します。

 ちなみに広辞苑で「端午の節句」を引くと、「古来、上巳(3月3日)を女子の節句とするのに対し、これを男子の節句とした。菖蒲やよもぎを軒に挿し、粽や柏餅を食う。近世以降は、甲冑、武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟をたてて、男子の成長を祝う。第二次大戦後はこどもの日として国民の祝日の一つ」とあり、昔は、3月3日は女の子の、5月5日は男の子の節句として、ちゃんと男女平等かつレディーファーストで両性の子供の成長を祝っていたのです。

 ところが、戦後、「端午の節句」の5月5日を、上述の法律で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ための「こどもの日」として、男・女児を等しく祝福する国民の休日と定めたものの、飾り物だけは「端午の節句」の定番品がそのまま残ってしまった結果、何となく男児主役・女児脇役のようなイメージが感じられる祝日となり、ついつい冒頭の疑問を投げかけてみたくなったのです。

 が、そこには思いもよらないドンデン返しが待ち受けていました。と申しますのも、上述のような見方は正にうわべだけのものであって、実は、「端午の節句」を「こどもの日」と呼ぶように変えた結果、日本の女児は、おひな祭りとこどもの日の2回分をまるまるお祝いしてもらえるようになった上、お母さんに至っては、まず法律条文どおりに「こどもの日」に感謝された上、そのすぐ後に来る「母の日」においては、「父の日」とは桁違いの感謝・祝福を受けることとなるなど、全く女性群の大勝利という結果が現実のものとなったのです。

 「戦後、女性と靴下は強くなった」と言われる現象に、実は「こどもの日」の制定が大きくかかわっていたことに気づくに及んだ私は、所詮は男のひがみの塊に過ぎないのか、それとも秘匿されてきた戦後史の本質に行き着いたのか。ここは読者諸氏のご判断にゆだねざるを得ませんが、ことほどさように、「こどもの日」の持つ意味は深くて重いものだったのです。

 ところで、そんな恐ろしい戦後史の是非はともかくとして、改めて原点に戻って考えてみれば、そもそも「こどもの日」がどんな経緯で定められようが定められなかろうが、子供達をいつくしむ親の思いや愛情は、もともと生き物すべてに共通する本能の発露であって、人間社会に置き換えたところで、親子の情愛の深さに民族間の差異などあろうはずがありません。

 然るに、子供、とりわけ幼な子に対する親としての具体的な考え方、接し方、愛情の表現形態といったこととなりますと、本能とは別次元の文化や伝承といった要素が絡んでくるため、民族間に微妙な違いや特色が現れてくるような気がします。

 そういう観点からわが日本人の子供への接し方を概観してみると、「子宝」という言葉に象徴されるように、子供を天からの「授かりもの」と考えて強く愛惜の念を抱き、子供ほど大切なものはない、子供の未熟さほどいとおしむべきものはない、子供の存在は格別であってその幼き命には神が宿っている、といった敬慕の思いが相対的には極めて強いという特性を有しているように思えるのです。

 それだけに、昔、英語で「お子様は何人いらっしゃいますか」を ’How many children do you have? ‘と言うのだと聞いた時は、「Haveかい、子供は」との違和感を覚えたものでした。何事も洋の東西には違いがあるものですが、大人と子供の関係についても、不勉強のそしりを覚悟して大胆にその違いを表現させていただけるのなら、どうも西洋にあっては「相対的に大人は人間として完成された存在であるのに対して、子供は未熟で不完全な存在」という「上下・優劣」の位置づけで捉えられているのではないのかな、と感じます。

 これに対して、私達日本の祖先は、子供は天からの授かりものであって、大人の言うことを聞かないのは当たり前、そうだからこそ愛おしく可愛い。だから子供には決して高飛車に怒らず、子供のわがままな振る舞いに閉口しながらもこれを丸ごと受け入れ、やがてその子が諭して聞かせ得る年齢になってきたら道理を理解させものごとを弁えさせればいい、という感覚で、子供を一種異次元世界の存在として捉えてきたような気がするのです。

 そうだからこそ、日本では「泣く子と地頭には勝てぬ」のであり、逆に、「泣く子も黙る」ほどの事態とは余程に恐ろしいことであって、平素はそうしたことのない穏やかな日々の中で、子供に「泣く特権」を欲しいままにさせる環境を親が与えていくという親子関係が当たり前のように思われてきたのではないでしょうか。

 この、一見「あまやかせ過ぎ」のようにも見える幼少時の親と子の濃密な関係を通して双方に理屈を越えた深い信頼関係が確立・共有されるようになることで、やがて道理がわかるような年齢になってきた子供に対して、それまで甘やかせ放題だった親が、一転して是々非々に応じた厳しい叱責・指導を行う姿勢へと移行した時でも、子供は親の気持ちを理解・忖度し、豊かな感性・情愛・孝行心をもった立派な若者へと育っていったように感じられるのです。

 そんな仮説を裏付けるかのような逸話が、京都上京区の名刹 本隆寺に伝わっています。このお寺の境内には「夜泣止松(よなきどめのまつ)」と呼ばれる松の木があり、寺歴によれば、大永4年(1533)元旦の朝、同寺の第5世日諦上人が本堂に上ろうとした時、一人のご婦人が赤ん坊を上人に託して養育を乞うたといいます。その日から上人は、夜中に母を慕って泣きじゃくるその子を抱いては優しくあやしながら、本堂横の松の木のところに降り立ち、その周囲を廻られると、不思議なことにその子の夜泣きはピタリと収まります。翌日の晩も、翌々日の晩も同じようなことを繰り返しては、上人とその子の奇妙な体験を重ねていくうち、その子はすくすくと成長し、やがて知恵抜群、学識に秀でるようになって、後にこの本隆寺第7世の名僧日脩上人にまでなられたと伝えられています。そんな経緯から、この松は「夜泣止松」と呼ばれるようになり、その松葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きがやむという言い伝えが広まったのだそうです。

 たしかに夜泣きを止めた松の霊力もさることながら、それ以上に、上人が毎晩泣きじゃくる赤子をあやしながら庭に降り松の木の周りを廻られたというほほえましい光景の中に、天下の高僧とて泣きじゃくる赤子にはかなわなかったという日本の親子の原型を感じ取って、私は深い感銘を覚えました。

 と同時に、この優しく慈愛に満ちた日本の親子関係が、今、幼児虐待という形で崩れつつある現実に深い悲しみを感じずにはいられません。多くのヤングパパ・ヤングママが、自分達の大切な子供達を必死に守り育てている一方で、こうした悲しい出来事で命を落とす子供達が増えていることを思うと、本当に不憫でなりません。この国の何がどうなってこんな病理現象をきたすようになったのか、その解明と解消は焦眉の急といわねばなりますまい。

 ところで、日本の親子の原型だの、今の日本の病理現象だの、と偉そうに書き綴ってきた私ですが、幼い命を授かった当時は一体どんな父親だったでしょうか。誠に残念ながら、家事・育児は一切家内任せ、子供が泣き止まないとイライラして癇癪を起こす、オシメの交換なんてとんでもない、という身勝手この上ない亭主だったことを率直に白状しなければなりません。今日、夫の育児休暇制度が浸透しはじめ、現実に幼児の面倒を見事にこなしている若き父親たちのイクメンぶりを見ていると、かつての自分が、何事も仕事のせいにしていかに育児から逃れきっていたかが身に沁みて反省されます。「こどもの日」の法律文言に「母への感謝」と明記されている理由が今頃になって痛いほど分かるのです。

 ま、しかし、日本では、昔から亭主はそういうものであって、ここ最近になってようやく社会的風潮が変化してきたわけだから、ここは一つ大目に見ていただきましょう、と言いかけて、ふと「いや待てよ、世界で最初のイクメンパパが登場した国はほかでもないこの日本だったんじゃないか」ということに気がついたのです。その人は、今から1300年以上も昔のこの国に生まれ、結婚して子供に恵まれてからは、臆面もなくわが子の可愛さ、大切さを歌に詠い、業務中であっても「子供が泣いているのでお先に失礼します」と平気で帰宅した傑物貴族でした。

 その人の名は、山上憶良。万葉時代にイクメンチャンピオンとして、全ての価値の最上位に子供の存在を置き、何よりも子供を慈しむ心を大切にしてきた人として異彩を放っていました。万葉集に登載されている世界最初のこのイクメン作家の代表作をご紹介して、今月のマンスリーメッセージを閉じたいと思います(下記3首は昭和31年3月発行の明治書院刊「萬葉集の解釈と文法」より転載)。

 

巻三 337  山上の憶良の臣の宴より罷る歌一首

憶良らは今は罷らむ 子泣くらむ それその母も わを待つらむぞ

 

巻五 802  子等を思ふ歌一首

瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばましてしのはゆ
いづくよりきたりしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠し寝さぬ

 

同  803  反 歌

銀も金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

 

(平成26年5月1日 記)