第14回  虫すだく秋

 

秋の虫たちの演奏会場となっている庭の雑草  撮影 三和正明

秋の虫たちの演奏会場となっている庭の雑草  撮影 三和正明

 

 10月ともなれば、公園や庭の片隅の雑草の中から、盛んに鳴き声をあげている虫の存在に気付きます。その鳴き声は虫の種類によってさまざまですが、虫の体の大きさからすると随分大きな音量であることに驚かされます。しかもその鳴き声は、鈴虫やマツムシのように可憐で美しいものから、クツワムシのように決して美しいとはいえないものまで、実に多彩な上、それぞれの虫たちが自分達の鳴き声こそ天下逸品とばかりに、自慢の喉ならぬハネをこすり合わせて鳴くさまは、正に生命の合唱とも言うべき秋の風物詩の一つとして、深く心に響くものがあります。

 小学生のころ、「虫のこえ」という文部省唱歌を習いましたが、そこに登場する数多くの虫たちの鳴き声を擬音的に表現した歌詞の部分が面白く、秋にすだく虫たちに強い興味を覚えました。それが昂じて、あちこちで捕まえてきたミツカドコオロギやエンマコオロギなど、さまざまな種類のこおろぎを狭い庭に放ち、毎晩うるさいくらいの鳴き声に包まれて悦に入っていた子供時代の「虫すだく秋」を、今でも懐かしく思い起こします。

 さらに大人になってからも、音色鑑賞のために籠入りで売られている鈴虫を購入しては、その美声に聞きほれたものですが、何匹か入っている鈴虫の鳴き声はそれぞれに個性的で、澄み切った鳴き声のものもいれば、羽根が切れているのかかすれ声のものもあり、また、ボリュームたっぷりの声もあれば、頼りない音量のものもあって、聞き飽きることがなく、その鳴き声が今もなお耳に残っているくらいです。

 

 

1.あれ松虫が鳴いている

ちんちろちんちろ ちんちろりん

あれ鈴虫も鳴きだした

りんりんりんりん りいんりん

秋の夜長を鳴き通す  ああおもしろい虫の声

 

2.きりきりきりきり きりぎりす(こおろぎや)

がちゃがちゃがちゃがちゃ くつわむし

あとから馬おい追いついて

ちょんちょんちょんちょん すいっちょん

秋の夜長を鳴き通す  ああおもしろい虫の声

(出典:文部省唱歌「虫のこえ」)

 

 ところで、こうした秋の虫のさまざまな鳴き声に興趣を覚えるという感覚は、この国では当たり前のものとなっていますが、世界中の人々が私たち日本人と同じように虫の声を楽しむわけではないんですよ、という話を、かつて友人から聞いたことがあります。

 ということは、ともすれば雑音同然に感じられる虫の鳴き声を、微細な感覚によって聞き分けてはその風情を楽しんできたこの国の先人のDNAのおかげで、今の私たちの感性がこの身に備わっているのであって、そうした先人の豊かで研ぎ澄まされた感受性の源流がなければ、私たち自身も「虫すだく秋」を感じ取ることができなかった、ということになります。

 では、私たち日本の先人たちは、美しい声で鳴くがゆえにそういう虫が好きだったのでしょうか。虫と言う小さな命への高い関心を抱いたのは、それが風情ある鳴き声を発してくれるから、だったのでしょうか。

 私は、どうもそうではないような気がしてなりません。日本人の虫への思いや関心は、何も秋に鳴く虫のみならず、鳴きもせず、美しくもない虫に対しても心を通わせるところがあり、そこには虫も私たちも共に同じ地球上に生を受けた同胞である、というある種の連帯意識が強く宿っているように思えてならないのです。人と動物や虫たち、人と植物たち、といった人との対比的概念として彼らを捉えるのではなく、共に、この美しい風土に命を授かり、季節の触感を共有する中で成長も老衰も感じあってきた同じ生き物として、私たち日本人は、えもいわれぬ共生感覚を育んできたのだと実感せずにはいられないのです。

 しかも、面白いことに、そうした感覚は、今の時代なら動物や虫たちへの関心が強い男の子のものと相場は決まっているのですが、昔はむしろ女性のほうが虫への関心が高かったのではないか、とさえ思えるところがあるのです。

 たとえば、清少納言は、その著書「枕草子」の43段に、数々の虫のことを書き連ねていますが、そこには、彼女が好きな虫として、鈴虫(今の松虫のこと)、ひぐらし、蝶、松虫(今の鈴虫のこと)、きりぎりす(今のこおろぎのこと)、はたおり(今のきりぎりすのこと)、われから(海草につく虫)、ひお虫(かげろうのこと)、蛍をあげる一方、可愛そうな虫として蓑虫を、感慨深い虫としてぬかづき虫(コメツキムシ)を、憎らしい虫としてハエを、面白く可愛い虫として夏虫(火取り虫、灯に寄ってくる蛾の一種)を、憎いが面白い虫としてアリを挙げる、といった按配で、これが宮中に勤務していた女性かと思えるほど虫に詳しく、かつ思いの寄せ方が人間相手と同じ感覚なのです。

 さらには、毛虫が好きだったという「虫愛ずる姫君」なるお方もおられた、というくらいに虫に寄せる女性の関心が極めて高いのに対し、昔の男性が虫のことを楽しく論じたり、書いたりしているという話は、不勉強な私には思い当たるものがありません。小動物クラスになると鳥獣戯画を描いたと言われる鳥羽僧正や、江戸時代の小林一茶などは、無類の動物好きだったとは思われますが、虫となると、どうも平安女性の右に出るものは見当たらないように思えるのです

 因みに、「源氏物語や枕草子がテーマにしてきたものを中世の自分が再び論じてどこが悪い。感じたことを言わないと腹が膨れるじゃないか」(徒然草第19段)と啖呵を切った吉田兼好でさえ、その著「徒然草」に虫に関する記述は見当たらず(全文チェックしたわけではなく、日栄社刊「新・要説 徒然草」の語句索引で調べてみただけですが・・・)、むしろ彼は虫が嫌いだったのではないか、と想像されるくらいです。

 そこで思うのです。19世紀から20世紀にかけて、欧米で「ファーブル昆虫記」や「シートン動物記」が出版されましたが、その気になってさえいれば、日本でははるか平安の昔に「清少納言昆虫記」が完成していたはずだと。だから、虫好きの私は、ついつい彼女に「なんで、虫のことを一冊の本にしておいてくれなかったの」と言いたくもなるのです。

 ことほどさように、自然界の誠に小さな存在である虫にまで共感性をもって臨んできた素晴らしい国民性を今の私たちが継承してきたおかげで、私たちの詩心や感受性が育まれてきたのだ、と自覚するにつけ、先人への敬意を感じずにはいられませんが、その一方で、今日の環境破壊が、とりもなおさず私たち自身の感性の破壊につながっているのだと思うと慄然とします。

 しかも、そんな危機的状況が進んでいる中で、あいも変らず、人間の耳に美しく聞こえるものが良い鳴き声で、人間の耳にとっては単にジイジイと鳴いているだけの地味な鳴き声はつまらぬ虫と決め付けて平気でいられる私たち現代人の身勝手さを自分の心の中にも感じ取って、複雑な思いがいたします。

 ひょっとしたら、足元の草むらの中にいる虫たちは、何でも自分の感覚でしか価値を判断できない視野の狭さと、自分本位のものの感じ方でしか物事に接することのできない人間という生き物の業の深さを、「全く虫のいい話だよね」と嘲笑しているのかもしれないのです。けだし虫たちは、まことに無視できぬ存在だと思えるのですが、いかがなものでしょうか。

( 平成26年10月1日 記 )