第16回 ゆく年くる年

 

今年も除夜の鐘を響かせる初冬の知恩院三門      撮影 三和正明

今年も除夜の鐘を響かせる初冬の知恩院三門
撮影 三和正明

 

 今日から12月。ついこの間、新年を迎えたと思ったのに、もう今年最後の月に身を置く自分を省みて、人を待たぬ歳月の厳しさを噛み締める日でもあります。

 そんな感慨を抱きつつも、毎年12月になると、「これぞ日本」と感じさせる瞬間が年末のテレビ番組に現われるのを、実は、今年も秘かに楽しみにしています。NHKのテレビ番組「ゆく年くる年」がそれです。

 どの点がそんなに楽しみなのか、と問われれば、その番組が正に始まる「その瞬間」がたまらないのです、と告白しなければなりません。

 ご承知のように、「ゆく年くる年」が放送される直前までは、年末恒例の「紅白歌合戦」が、年々その度合いを増す過剰な音、極彩色の光、奇抜な演出によって、延々何時間もオンエアされます。ようやく紅組・白組の勝ち負けが決して、「蛍の光」の大合唱をした挙句に、パーンてな音と共に、紙吹雪かクラッカーが派手に会場を包み込み、やっとのことでこの年末の「国民的行事」の終了が告げられるのです。

 と、正にその瞬間、これが同じNHKのテレビ放送か、と思えるほどに、それまでの耳をつんざく音や人工的な色彩が一切掻き消された別世界の画面が突如として登場し、あの「ゆく年くる年」の放送が開始されます。私は、その瞬間に、騒がしき世界を清めんとする神々の降臨を感じ取り、「これぞ日本」と快哉を叫びたくなるのです。

 NHKも心得たもので、最初の画面は、型を押したように、雪深い参道を黙々と初詣に上ってくる地元の人たちの表情を映し出し、この番組直前の「喧騒の世界」とは最も対極にある「静寂の世界」をクローズアップします。しかも、この転換の効果を狙って、すぐにはナレーションを入れず、ただサクサクと雪を踏みしめる音だけが聞こえてくる画面に視聴者の視線をひきつけておいた上で、やがて物静かに、画面に映る神社の名と共に、今年、この地域を襲った天災や不幸な出来事が語られ始めます。画面には、来年こそはそうした厄災のない年であってほしいと願う人々の敬虔な姿が次々と映し出されていくのです。

 最初にそうしたローカル色の濃い画面が紹介されたあとには、全国的に名を知られた古刹などにカメラはリレーされます。例えば、その除夜の鐘の大きさと荘厳な響きで人々を魅了する京都知恩院の登場。開祖法然上人やその寺歴に始まり、この寺院の雰囲気や信仰の原点が語られるナレーションの冒頭部分は、披露される日本語の美しさやリズム感で視聴者を異次元世界に引きずり込まねばならない原稿の力と、それにふさわしい深く美しい語り口で読み上げることを要求されるアナウンサーの力量とが共に問われる緊張の瞬間でもありましょう。

 このように、「紅白歌合戦」が終わり、「ゆく年くる年」が始まる瞬間に、私が「これぞ日本」と感じて興奮するのは、日本の芸術や芸道の世界にあって昔から磨き上げられてきた「動(喧騒)と静(閑寂)」という好対照の2つの感覚世界の「突然かつ鮮やかな転換」が、テレビ番組と言う場で見事に再現されているからなのです。

 能の世界。シテの乱舞と囃し方の激しい演奏がひとしきり続いた後、突然、笛の音が「ピイー」と甲高く響いた瞬間、それまでの「喧騒」の世界から一転「静寂」の世界への転換が図られる、あの緊張感。

 葛飾北斎の浮世絵 富嶽三十六景「神奈川沖波裏」。二艘の舟を翻弄する画面手前の波の激しい「動」の世界とは好対照に、波間のはるか向こうに蕭然とそびえる富士の「静」の凄さ。

 歌舞伎や大相撲の拍子木。直前までの激しい動きや手に汗握る「喧騒・動」の興奮を、「これにて打ち止め」と一気に画して鳴り響く拍子木の乾いた音が、「静寂・閑」の世界を呼び込み、荒らぶる神が鎮まっていく大団円。

 こうした対照の見事さは、建築、彫像、手工芸、染色、襖絵、図案、服飾、書道、等の造形世界においてもフルに発揮され、単調さと躍動感のコントラストを際立たせるという手法で、ものごとに命を宿らせる役割を存分に発揮してきたのです。この異質性の絶妙の対比の中にこそ、日本文化のエキスが籠められていると言っても過言ではありますまい。

 にもかかわらず、この国で生まれ、育ってくると、こうした非凡な日本文化の特質でさえ、日常的に当たり前のように感じられてしまう結果、その価値がどれほどに素晴らしいものなのか、が、ついつい見過ごされてしまいがちです。反面、海外の人々にはそうした日本文化の異彩性が驚きでもあり新鮮なために、彼らからこの日本文化の魅力がアピールされ、それに我々日本人が「そうか、これってそんなに凄いことなのか」と気付かされるという逆転現象がたえず起きるようになります。

 私たち日本人は、この逆転現象が日常化している現実を、今こそわが国の先人達に心から詫びなければなりません。海外の人たちによって日本文化の真の価値に気付かされるという奇妙な現象が起きるのは、我々自身が「日本人とは何か」、「日本文化とは何か」、「日本の先人たちが磨き上げてきた感性とは何か」という大切な原点を忘れてしまっているからであり、我々自身の不勉強以外のなにものでもないからなのです。

 実際、日本国内では変人扱いされたり、その作品が奇妙奇天烈だと決め付けられてきた芸術家達が海外の著明な文化・芸術選奨に選ばれたとなると、手のひらを返したように絶賛に転じるという実例は、枚挙に暇がありません。本来、本当の価値を見定めなければならない文化人が、一体、いつから海外至上主義の卑屈な視点に凝り固まり、世界の笑い者になってしまったのだろうか、と思うと、悔しくて仕方がありません。外国人に言われて初めてこの国が大切にしてきた固有の価値に目覚めるという認識パターンを今こそ改めなければ、この国の明日はなくなってしまいましょう。

 たかが「ゆく年くる年」という番組の始まり方が好きだからといって、何だか大げさな話になってしまいましたが、この番組が放送される同じ時間帯に他のテレビ局の放送を見ると、どこもかしこもが、あと何分で新年というカウントダウンにうつつを抜かし、静寂を求めるどころか、喧騒に輪をかけて騒ぎまくり、くだらぬ駄洒落に馬鹿笑いしています。日本の大晦日というものの本質を忘れ、間もなく迎えるお正月の厳かさを無視して、ドンチャン騒ぎをしているようでは、日本は既にその終わりの始まりをスタートさせているのかもしれない、とさえ思えてくるのです。

 もちろん昔の人々も大いに騒ぎました。ひょっとしたら今のレベルをはるかに越えて大いなる喧騒の坩堝と化していたかもしれません。が、ある瞬間に、その一方向だけのバカ騒ぎに終止符を打って、静かに自分を見つめなおし、「考える自分」「己を見つめる自分」「神仏に帰依する自分」をしっかりと取り戻していたのではないでしょうか。その転換の技、切り替えの妙を心得ていたからこそ、瞬時に「動」と「静」の二極間移動によって、己を見失わずに生きおおせてきたように思えてならないのです。

 今年の除夜の鐘を聞きながら、この「入れ替えの感性」を持たない人間の薄っぺらさ、知性の乏しさ、魅力のなさを恥ずかしいこととしてきた先人の知恵や、自身の身のうちに並存して持ち合わせている異質の二面性の引力の強さによって己が器量を鍛え上げてきた先人の生きざまに思いを馳せ、新玉の年に賭ける新しい自分を確立していかなければ、せっかくこの素晴らしい国に生を受けた意味がないように思えるのですが、いかがなものでしょうか。

以上