第17回 ひつじ年の示唆

 

今年も神々しく元旦を迎える賀茂御祖神社 (通称 下鴨神社)   撮影 三和正明

今年も神々しく元旦を迎える賀茂御祖神社
(通称 下鴨神社)   撮影 三和正明

 

 新年 明けましておめでとうございます。ポジティブジャパン マンスリーメッセージご愛読者の皆さまにおかれましては、清々しい元旦をお迎えのこととお慶び申し上げます。

 さて、今年の干支は「ひつじ」ですが、暦の上で用いられる文字は「羊」ではなく「未」。

 そして、この「未」という文字を目にした瞬間、今年一年を占う上での大切な示唆がその文字の中に籠められていることに気がつきました。と申しますのも、この「未」と言う文字を巧みに取り入れて作られたある諺が、正に今年の生き方・考え方を見事に言い当てているように感じ取れたからなのです。

 その諺とは、「未(ま)だはもうなり、もうは未(ま)だなり」。

 一般に、この諺は、相場に手を出す人たちが陥りやすい過ちを戒めるために昔から流布されているもので、投資家が相場で売買する時の心理に対する警句として、実に言い得て妙なる格言とされています。

 往々にして相場に手を出す人たちは、常に欲が絡む結果、売りたい時には、「まだ」相場は上昇すると期待して、「もう」売るべきタイミングが来ているにもかかわらず、売ろうとしない結果、売り時を逸してしまって損をしたり、また、買いたい時には、「もう」買い時がきた、今買わないと相場はすぐに上昇に転ずると判断して、「まだ」この先相場は下がるにもかかわらず買ってしまい、結果的に高値掴みのミスを犯す、といった失敗を重ねがちだと言われます。

 この諺は、そういう人たちに対して「『まだまだ』と思う時こそ『もう』そのタイミングは来ていると思え、『もう』と感じる時こそ『まだ』そう思うのは早いと思え」と相場への臨み方を説いてきたのです。

 では、そんな諺が私たちに伝えようとしている「今年の示唆」とは一体何なのでしょう。

 私は、今、この国において、私たちが「まだ」と考えていることが実は「もう」であり、「もう」と思っていることが実は「まだ」なんだ、というように考えてこの1年に臨まないと、この国は取り返しのつかない窮状に陥ってしまいますよ、という啓示ではないか、と感じ取ったのです。

 ならば今の日本において、「まだ」と考えていることで、実は「もう」という次元に至っている現象とは一体何でしょう。人それぞれに感じるものは異なりましょうが、私は、この国の財政面での窮状に、この「まだはもうなり」の兆候を感じざるを得ません。

 たしかに、今すぐこの国の財政面の危惧が現実化する恐れは低いかもしれません。だが、その危惧を回避するために、国力の源となっている経済活動を迅速果敢に活性化していかなければ、目には見えないさまざまなリスクが底流に集積しはじめていて、何かの拍子にその矛盾が一気に表面化する恐れが内包されているように感じられて仕方がないのです。

 仮にも、構造改革戦略が掛け声倒れのままに推移せんか、「まだまだ先のこと」と思っているこの国の財政破綻は、「もう」現実のものとなる危険性を孕んでいると覚悟しなければなりません。

 そもそも一国の衰退は、国力が盛んな時に忍び寄っている衰退の萌芽に気がつかないか、気付いていたとしてもまだまだ大丈夫と高を括ることから始まるといいます。「まだ大丈夫」は「もう遅い」と同義語だという危機意識を胸に、真剣かつ迅速に対応していかねば、この国にはあまり時間がないというのが、今の状況ではないでしょうか。

 一方、この国の「『もう』は『まだ』なり」とは何でしょうか。私は、東日本大震災が正にそれに該当するのではないかと心配しています。

 たしかに、あの大災害は、「もう」復興予算も再開発の工事も手厚く措置され、結果的に日本中に人手不足と工賃上昇の余波が及ぶほどの事態を招くに至りました。被災地の復興を巡っては「もう」打つべき手が打たれ、あとは、その執行によって順調に立ち直っていくという想定下にあるようにさえ思えます。

 が、この問題は「もう」済んだと言える状況にあるのでしょうか。原発が今なおもたらしているさまざまな問題への解決策は遅々として進まず、難を逃れて疎開した人たちの生活環境は少しも改善されていません。地域住民の生活や健康面に重い課題や不安を残したまま推移しているこの問題は、「もう」目処がついたどころか、「まだ」明快な方向性さえ打ち出されないまま、新しい年を迎えてしまったと言う点で、「もうはまだなり」の何よりの証左と言えるのではないでしょうか。

 ところで、この国を取り巻く課題は、今あげたテーマだけではありません。「未だはもうなり、もうは未だなり」の観点で、この国の現状や私たち自身の身の回りを見直した時、山積している課題のあまりの多さに、思わず絶句してしまいます。

 人口減少、地方衰退、教育荒廃、幼児虐待、老人介護、年金・保険・医療費の問題、雇用・女性活用・子育ての体制不備、拝金主義の蔓延、倫理感の欠如、殺人事件の頻発、等々の社会的問題に加え、かねてから指摘されている大地震到来のリスク増大やこのところ急速に現実問題化しはじめた火山活動の本格化といった自然界の異変と言う問題までもが切迫感をもって語られるなど、「破綻」の要素が随所に忍び寄っているこの国の現実には愕然とさせられます。

 新年早々、暗い話になりました。が、今年は、そうした根深い問題に目を向け、そこから逃げることなく、かつ過去との関係を断ち切って、いま目の前にある危機の克服や対処に官民が真剣に取り組むことが喫緊に求められている年であり、その覚悟と心構えがなければ、ここからこの国は加速度的に坂道を転げ落ちていくこととなりますよ、という示唆を感じとることが求められているのです。「まだ(始まっていない)はもう(始まっている)」なのですから。

 幸い、この国には、過去において類似の危機に遭遇するたびに、先人たちが私心を捨てた不屈の頑張りで目の前のピンチを凌いできたという歴史があります。そのDNAが私たちには継承されているのだと信じてこのひつじ年に臨むことこそが、次世代の子供達のためにも、この国の恒久の発展のためにも絶対に必要ですよ、というのが、今年の干支であるヒツジさんが私たちに伝えようとしているメッセージなのではないでしょうか。

 最後に息抜きを。英語のYet という単語は、否定文で用いられると「まだ」という意味になり、肯定文では「もう」という意味になると、はるか昔に習った記憶があります。まるで、「まだはもうなり、もうはまだなり」と符合するかのようなこの英単語を思い起こし、洋の東西を問わず「まだ」と「もう」は紙一重なんだなと、合点がいった次第です

 (平成27年1月1日 記)