第25回 2学期

 

大きな赤い実を結ぶことで夏の終りを告げる柘榴   撮影 三和正明

大きな赤い実を結ぶことで夏の終りを告げる柘榴   撮影 三和正明


 

 今日から9月。学校では2学期が始まる月なのですが、こんな歳となった今でも、遊び呆けてついついあと回しにしていた夏休みの宿題や日記帳の未記入部分の一掃に焦りを覚えた2学期直前の小学校時代のことを、まざまざと思い起こします。

 あれほど「涼しいうちに宿題や勉強を済ませておきなさいよ」と言われながら、日中は、近所の草むらや畑に沢山棲息していた昆虫たちを追いかけまわし、夜ともなれば今と違って家族中が楽しみにしていたテレビ番組に夢中になって、あっという間に1日を終える、という繰り返し。それでも夏休みの残り期間はまだ十分にある、と高を括っておれたのは8月中旬頃までで、それ以降は、その咎めが一気にこの身に襲いかかってくるかのように、あっという間に9月直前となり、何とも言えない焦燥感・切迫感に身を苛まれた記憶が今なお不思議なリアリティーを伴って思い起こされるのですから、当時はよほど懲りたに違いありません。

 しかもこの切迫感は、無為のうちに一日一日が過ぎ去っていくというカレンダー的変化だけから押し寄せるのではなく、それを一段と補強するようなさまざまな演出効果が総動員された上でこの身に迫ってきたのですから、幼くて小心な小学生にしてみればその不安感は並大抵のものではなかったのです。

 その演出効果の第一は、蝉や虫の声の変化でした。蝉なら、アブラゼミがうるさいほどに鳴いている頃は、まだまだ夏休みが始まったばかりで余裕綽々だったのですが、夕暮れにヒグラシがカナカナと鳴くようになると、いかにも「夏休み、間もなく終了カナ・カナ。宿題、出来上がったカナ・カナ」と告げられているようで、身につまされたものです。

 蝉以外の虫もなかなかの名演出家でした。夏休み前半に草むらのそこらじゅうで大きな鳴き声を競っていたキリギリスが、やがてどこへともなく姿を消し、代わってコオロギなどの秋の虫たちが、そう、まるで秋本番の予行演習に臨むかのように、ややぎこちなく鳴き始めるようになってきたのも、こたえました。

 それでもコオロギの鳴き声はどこかに明るさ・美しさが感じられるのですが、いわゆる地虫と呼ばれる正体不明の鳴き声にはまいりました。秋の季語にもなっているこの「地虫鳴く」を、広辞苑では「秋の夜、土中で何とも知れぬ虫が鳴いている」と解説していますが、たしかに「何とも知れぬ虫」がたった一匹で、リズム感も強弱感もなく、ただひたすらジーと鳴くのを聞いていると、孤独感や焦燥感が掻きむしられて塞いだ気分に陥り、「頼むから静かにしてくれ」と言いたくなったものです。

 更に、虫たちは思わぬものを残して、夏の終わりを私たちに感じさせます。羽化や脱皮をしたあとの抜け殻がそれです。もともと羽化や脱皮は、夏の盛りまでには完了させているはずなのですが、その抜け殻は不思議に晩夏に見つかるのです。それまで気付かなかった場所にその脱ぎ捨てられた残滓が突然現れることで、宿題に追われて焦りまくっている小学生たちに夏の終焉というメッセージをいやが上にも伝えるのです。

 演出は虫だけではありません。花もまた演出効果を掻き立てました。初夏に鮮やかな赤い花を咲かせたザクロはやがて小さな実を結び、夏の終わりから秋の初めにかけてその実が次第に大きく赤くなって実の先端が徐々に開き始めると、季節はもう秋なのです。

 風も負けてはいません。この時期になると必ずやってくる台風が、昼間ならまだしも、夜ともなれば暗闇の中で咆哮をあげ、激しい風雨に打たれて打ち震える雨戸の音が、宿題をやり残している小学生の恐怖心と不安な気持ちをいやが上にも駆りたてていくのです。

 が、その激しい風雨以上に季節の移り変わりを子供たちに実感させたのは、朝夕に吹く涼しく優しい風でした。子供たちは、日中の気温が依然として真夏並みなのに、朝夕に吹く風の気配が明らかに変化している様子を敏感に感じ取り、ついにやってきた「夏休みの終了」を告げる大きな合図をそこに嗅ぎ取っていたのです。

 後年、高校生となって、平安時代初期の歌人 藤原敏行朝臣の名歌

「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」

を教わった時、あの小学生の頃の2学期直前の夏休み終盤に抱いた実感をまざまざと思い起こし、この名歌に妙に感心したものでした(2年前の9月1日号からこのマンスリーメッセージはスタートしたのですが、その記念すべき第1回でこの歌を取り上げ、日本人の感性の素晴らしさをお伝えしたことがついこの間のように思い起こされます)。

 さて、夏休みの終わりを子供たちに感じさせる演出効果の最たるものは、何と言っても日の暮れる時間が早くなっていったことでした。夏休みの前半は、いつまで経っても空が明るく、家の前に縁台を置いて将棋を楽しむ人々や、その周りで線香花火を楽しむ子供たちの光景があちこちで見られたり、5のつく日や7のつく日などには駅前に夜店が出て金魚すくいやヨーヨー釣りに興じるなど、夕方以降寝るまでの時間がたっぷりとあって、本当に楽しいものでした。が、8月下旬ともなれば、つるべ落としとまではいかないにしても、それまでのあの夕方の長さは嘘のように姿を消し、夕食以降は屋外に子供の姿や声は見られなくなって、それが晩夏の寂しさを一層掻き立てるのでした。宿題が残っている子供たちにとって、日没の早まりという演出効果は、相当にこたえたものだったのです。

 こうして自然界全体が「夏の終わり」を告げるシグナルを発信しはじめる中で、尻に火がついた子どもたちは、常々親たちから耳にたこができるくらい聞かされてきたあの言葉の真の意味を遂に悟るに至るのです。

「昔から言うでしょ『楽は苦の種、苦は楽の種』って。今、楽して遊んでばかりいたら、そのうち苦しむようになるんだから、さっさと宿題は片付けておきなさいよ」

 この諺には、9月を暗示する「ク」という言葉が巧みに配されていて、語呂合わせのリズム感が実に小気味よく心に響いてきます。が、小学生の身では、「楽は苦の種」の方は、その実体験から身をもって理解することができるものの、「苦は楽の種」の境地には至らぬままに、とにもかくにもギリギリいっぱいで宿題をやり遂げ、歯抜け状態だった日記帳もなんとか埋め切って、ランドセルにそれらの出来たてホヤホヤの宿題・作品を詰め込むや、2学期の開幕を告げる9月へと元気いっぱいに駆け出していったのです。

 それから早や60年近い歳月が経ちました。悲しいことに、年間を通じて18歳未満児が自殺するのがもっとも多い日が9月1日だという報道に接して、やりきれない思いを抱きました。虫も花も風も日の長さも、そんな不幸な事態を引き起こすために演出の役割を買って出たのではなかったはずなのに、一体どこでどうこの国はおかしくなってしまったのでしょうか。

( 平成27年9月1日 記 )