第26回 十三夜
今日から10月。日本が誇る美しい季節の移ろいの中でも、その爽やかさと、次第に哀調を帯びてくる詩情性の豊かさにおいて、12ケ月中の筆頭格と呼んでよい月を迎えることになりました。
田んぼでは、金色に輝く稲穂が頭を垂れ、家の庭や神社の境内などでは、丹精込めて育てられた菊が、見事な大輪の花を開きます。秋の虫たちもあちこちで演奏会を繰り広げ、いつの間にか木々の葉っぱが色づき始めます。気がつけば朝夕の気温はかなり冷気を帯び、霜が降りている朝を迎えるようにもなって、心のどこかに哀愁が漂いはじめます。
そんな10月の美しい自然の情景を思い浮かべる時、忘れてはならないのが、毎年旧暦の9月13日の夜に輝く月を愛でる風習「十三夜」ではないでしょうか。
広辞苑によれば、十三夜とは「旧暦9月13日の夜」を指し、「(旧暦)8月の十五夜の月に対して『後(のち)の月』と呼び、また(芋を月に供えるからそう呼ばれる十五夜の月の別称である)芋名月に対して豆名月・栗名月といって、月見の行事を行う」とあります。
(注) ( )内は筆者による補記
さらに同書では、この十三夜の風習は、「919年(延喜19)の醍醐天皇の月の宴に始まるとも、宇多天皇がこの夜の月を無双と賞したのによるともいうが、わが国固有のものらしい。」と書かれていて、十五夜が中国伝来のものであったのに対して、十三夜は日本固有の月見の行事として定着したようだ、と記載されています。
ところで、月見の時期を十五夜と定めてきた中国の風習を長く継承してきたわが国において、わざわざその翌月の十三日に「十三夜」という月見の夜をクリエイトし、以降、十五夜と並んで十三夜でも月を賞賛したというところに、この国のユニークさを感じるのは私だけでしょうか。
十三夜の始まりとされている醍醐天皇の月の宴が営まれたのは919年とされますが、この時期の日本は、菅原道真公の進言により遣唐使が廃止(894年)され、紀貫之・友則により古今集が編纂(905年)され、大陸では唐が滅亡(907年)する一方で、京の都では小野道風ら三跡による書筆分野での活躍(925年ごろ)や、紀貫之の手になる最初のかな文学「土佐日記」が書かれる(935年)など、正に国風文化興隆の時期と軌を一にしていました。
その影響下で、詩心いっぱいの我が先人たちは、名月を讃えるにおいても大陸的な感覚だけを後生大事とするお仕着せの鑑賞方法だけでは飽き足らず、わが国固有の月見のスタイルを開発し、そこに我が国独自の繊細で儚げな自然観を大いに磨き上げる楽しみを作りだしたのではないでしょうか。
「なるほど」と感服するものは即座にとり入れると同時に、そこからその輸入文化をさらに昇華させ洗練されたレベルへと感性に磨きをかけ、より魅力的でこの国の風土になじむ文化スタイルを構築していく。この独立自尊の誇らしい感性こそ、この国の先人達が古来追い求め続けてきた日本文化の源流だったように思えてなりません。
たかがお月見ではあっても、先進国のスタイルをそのまま受け入れて満足してしまうような安易で低レベルの文化性には決して満足せず、もっと深いもの、もっと繊細なもの、もっと心に響くもの、もっと共感が得られるものへと心の深化を求め続けてきた日本人。
そうしたこの国の先人達の感性に想いを馳せながら仰ぎ見た今年の十五夜の月(先月27日)と、その翌日の「スーパームーン」。東京では流れる雲に時に隠れる瞬間もありましたが、その煌々たる美しさ、中天での存在感に息を呑むと共に、今月25日にやってくる今年の十三夜の月との「月比べ」が本当に待ち遠しく感じられました。
中国伝来の名月観賞スタイル「十五夜」に、我が国独自の名月賞賛スタイル「十三夜」をアドオンしていくことで、一層粋な感覚に磨きをかけるというこの国の心意気・創造性とちょっとした茶目っ気。悲しいことに、今、そんな熱き思いと遊び心が万事において勢いをなくしてきているこの国の現実に想いを馳せるためにも、今月25日の「十三夜」の月をとくと見つめなおし、日本人が長きに亘って育み育ててきた固有の感性をしっかりと取り戻してみようではありませんか。
( 平成27年10月1日 記 )