第32回 春うらら

色とりどりの桜で賑わう京都御苑の春うらら  撮影 三和正明

色とりどりの桜で賑わう京都御苑の春うらら  撮影 三和正明

 

 毎年4月になると、ついつい口ずさむ歌があります。武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲になる不朽の名曲「花」がそれですが、その冒頭の「春のうららの」という部分に、この時期独特の穏やかで暖かい雰囲気を感じとり、かつ、その詞全体の情景描写の見事さと、春の到来を喜ぶ雰囲気に溢れた素晴らしい曲調に、酔いしれるのです。

 しかもその詞は、明治時代の作品にふさわしく文語調で作られていて、今ではなかなか味わえない日本語の多彩な表現に感銘を覚えます。

 さらに、1番から3番までの歌詞を、船に乗って花見をする昼の光景、桜や柳と心を通わせる朝夕の抒情感、おぼろ月に照らしだされる夜桜の見事さ、という順で展開するという絶妙の詩情性や、曲の展開において、導入部の穏やかな曲想が「櫂のしずくも」・「見ずや夕暮れ」・「げに一刻も」のところで一気に音階が高められることで「起承転結の妙」を満喫させる秀逸の手法からも、この歌は世界に誇りうる最高の作品と言えるのではないでしょうか。

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が
 櫂のしづくも花と散る 眺めを何にたとうべき

見ずやあけぼの露浴びて われにもの言う桜木を
 見ずや夕暮れ手をのべて われ差し招く青柳を

錦織り成す長堤に くるればのぼるおぼろ月
 げに一刻も千金の 眺めを何にたとうべき

 ところで、この「花」という作品が文語調の格調の高さを歌いあげている筆頭格だとすれば、口語調の優しい言葉を羅列して、春のうららかさに覆いつくされた光景を歌いあげた作品といえば、「春のうた」という童謡ではないか、と思います。

 野口雨情作詞・草川 信作曲になるこの童謡の、日本中に漂う春の格別の雰囲気を歌いあげた平和でのどかな情景描写は、聞く方も歌う方もが共にとろけるような春の息吹に包み込まれてしまう感懐を抱かせるほどです。

さくらの花の咲くころは うららうららと日はうらら
 ガラスの窓さえみなうらら 学校の庭さえみなうらら

河原にひばりの鳴くころは うららうららと日はうらら
 乳牛舎(ちちや)の牛さえみなうらら 鶏舎(とりや)の鶏さえみなうらら

畑に菜種の咲くころは うららうららと日はうらら
 渚の砂さえみなうらら どなたの顔さえみなうらら

 なんというのどかさ、なんという穏やかさでしょう。こんな春の雰囲気に包まれながら、私たちは、日々足るを知り、生かされている奇跡を信じあって、毎日を感謝の気持ちで過ごすように、と、この国の神様は細やかな気配りと段取りをつけて下さったのです。

 にも関わらず、その感覚や原点を忘れ去り、ただただ世界に伍していかねばという表面的な競争マインドのみに振り回され、大自然の恩恵を忘れ、目先の利益追求にのみ心を奪われてしまっているようでは、本当に神様に申し訳がたたない。この歌は、そんなメッセージを私たちに送り届けようとしているのではないでしょうか。

 ところで、この「うらら」という言葉を広辞苑で調べてみますと、そもそもの語源は「うらうら」という言葉で、それが約音化して「うらら」となり、「うららか」ともなった旨の説明があります。で、その元々の語源である「うらうら」とは「日ざしがやわらかで、のどかなさま」と記述され、「うらら・うららか」という項では、「空が晴れて、日影の明るくおだやかなさま。多く春の日にいう。」と説明されています。そのことからも、「うらら」という表現によって、春の晴れた日の独特の心浮き立つようなさまが一層強調されるようになったように思えます。

 たしかに、晴れた春の日のこの感覚を表現する上で、この言葉ほどぴたりとくるものはありません。しかも、この言葉は、その状況を端的かつ見事に表現しているというレベルにとどまらず、精神的にも肉体的にも春の時期特有の浮き立つ思いや、表に出たいという気持ちを湧き立たせるような独特の霊力を言葉のうちに宿していて、日本人のハイセンスな言語創出能力の高さを象徴しているような言葉でもあるように感じられるのです。

 そんな日本的表現の代表選手とも言える「うらら」が、やがて思いもかけぬ形で昭和という時代に登場してくるようになろうとは思いもよりませんでした。それは、山本リンダという女性歌手が歌った「狙いうち」の冒頭の部分においてでした。

 そこでは激しい踊りと共に、「うらら」と「うらうら」とが繰り返し絶叫され、そのあとに、自分の美貌を狙い撃ちしてみよと男性を挑発するような刺激的な歌詞が歌いあげられるのですが、その歌詞のどれ一つをとってみても、もともとの美しい日本語として誕生した「うらら」という言葉につながる意味的連鎖性などは何一つ存在してはおりません。つまりは一種の掛け声として歌われているだけの言葉として「うらら」と「うらうら」とが使われたに過ぎず、それなら「どうじゃ、どうじゃ、どんなもんじゃ」でも構わなかったわけですから、せっかく「春のうららの」で日本語の豊かな感性を誇りに思っていた身としては、今は亡き作詞家の阿久 悠さんに、その真意を聞きたかったところです。

 案外、阿久 悠さんは、この「うらら」という言葉に宿る霊力に着目されて、この言葉によって男性の興奮を誘い出そうとされたのかもしれない、と考えますと、この「うらら」と似たような語感のキャッチフレーズでエアコンのヒット商品を生み出された某メーカーの「うるる」と「さらら」にも、言葉の霊力に賭けたいとするマーケティング戦略があったのかもしれませんね。

 今年の春は足踏みをしながらの到来で、なかなか「春うらら」の実感が湧きませんが、万葉以来のこの言葉の霊力は、やがて今年も日本中を埋め尽くすようになりましょう。

 げに素晴らしき国に生まれたものです。

( 平成28年4月1日 記 )