第34回 アジサイ
今日から6月ですが、6月と言えばアジサイを思い起こしますね。このアジサイ、調べてみると非常にユニークで面白い植物であることに気づきます。
まず、あの花の形からは、派手で豪華な印象が強く、日本人好みの可憐さやつつましさが感じにくいせいか、ついつい外来植物かと思いますが、その原産地は意外にも我が祖国 日本。それが西洋で品種改良されて「西洋アジサイ」が誕生したと言われるくらいに、もともとこの日本の純国産種なんですね。昔からこの国固有の花として頑張って咲いてきているのに、ちょっと外国産の雰囲気を感じてしまうのは、アジサイには実に申し訳ない気がするのですが、皆さまはどのようにお感じになっておられますでしょうか。
さらに、無知を晒して申し上げたいことといえばもう一つ。色々なアジサイの品種の中に、真ん中の多数の小さい花の固まりの周囲に大きな額縁のような花びら状のものが取り囲んでいる形状のものがあり、これを「ガクアジサイ」と呼んでいますが、私などは、アジサイと言えば毬のように球形に花を咲かせる種類をイメージするものですから、「ガクアジサイ」はその改良品種の一つとばかり思い込んでおりました。ところが、実は、その「ガクアジサイ」こそがアジサイの原種であって、私たちが通常アジサイとしてなじんでいる品種こそが改良品種だということを知って、驚きを禁じ得ませんでした。
私が原種をとり違えた背景には、通常名前をつける際は、原種と呼ばれるものには形容詞をつけず、その変化種にこそその変化ぶりを表すにふさわしい形容詞をかぶせるものとの思い込みがあったためです。その固定観念からすれば、わざわざ「ガク」という特別な接頭語がつけられているのは、そっちの方が後継品種だと思い込んでしまうのも当然で、今回、本号を執筆するにあたって、いつものように広辞苑で事実関係を調べて初めてその固定観念が誤りであることを知った次第です。
ただ、負け惜しみで言うわけではありませんが、やはり原種に形容詞をつける場合には「本(例えばホンアジサイとか)」とか「元(同じく元アジサイとか)」といった名前にしてもらいたいもので、もしどうしても原種を「ガクアジサイ」と呼びたいのなら、今日一般化している形状のアジサイの方には「ガクナシアジサイ」とでも命名しておいてくれれば、素人でもどちらが原種かはすぐにわかるものを、という悔しさを拭いきれません。
と申しますのも、その独特の形を形容する表現として冠せられた見事な形容語に引きずられてしまって、本来原種として敬意を払わねばならなかった「ガクアジサイ」を、ずっと改良品種であるかのように誤解していた申し訳なさを、原種「ガクアジサイ」に心から詫びたい気持ちで一杯になっているからです。
さらにアジサイの面白さを追いかけましょう。よく知られているように、アジサイはその生えている土地の土壌の性質がアルカリ性か酸性かによって咲く花の色が変わるという性質をもっています。そのアジサイの特性から、私は、アジサイという花が地質に非常に敏感というか、それを自分の体内で克服・昇華することなく、実に正直に土質の影響を花の色に反映させると言う点で、素直と言えば素直、むしろ余りにもストレート過ぎて、少々原始的な要素を色濃く残しているように感じとっています。
いわば単純そのものの精神で生きているような感じのするアジサイの花の色ですが、その単純明快さは、土壌の酸性度の反映のみならず、開花から日を経るに従っても徐々にその色を変化させる性質にもよく現れていて、最初は花に含まれる葉緑素の影響で薄い黄緑色を帯びているものが、日数を経るに従って次第に赤や青に変化し、花の老化につれて赤味を帯びるようになるなど、俗に「七変化」などという呼ばれ方をするほどの特徴を発揮するのです。
そこには、逆境に耐えながら自分の最高の状態を周囲に示し、その限界が来たと悟るや潔く散っていく椿や桜のような美意識や、寒風に耐え抜いて遂に初春の到来をその香りと共に四方に告げる役割にこそ己が存在価値があると心得る梅のようなある種の神々しさとは一味も二味も違う正に天衣無縫の伸びやかなキャラが漂っています。むしろ、こうした自分の体力や体調の変貌を素直に表現すると言う、いかにも飾らない率直さというか武骨さがこの花の魅力でもあり、また、原生的要素を色濃く残している植物らしい味わいがあるように私には感じられるのです。
原生的と言えば、秋から冬にかけて枯れ枝同然になってしまうのは他の落葉植物と同様なのですが、アジサイの場合、その枯死同然の姿にいかにも原生的キャラが発揮されているように感じられてなりません。確かに、落葉樹はすべて一見して枯死状態で冬眠に入るのですが、アジサイのそれは、そこまでやるか、と言うくらいに徹底しているように思えます。実際、シーズンオフのさなかのアジサイの枝の部分をハサミで切ると、完全に枯れ切った中空状態で一滴の水分も見当たりません。他の木々が、ただ外見上葉っぱを落としているだけで、枝を切れば中には青々とした生命の営みを垣間見ることができるのに比べ、アジサイはもはや完全に枯れたか、と思わせる程の徹底ぶりです。
この正に原生的な擬態かと思わせるところがまたアジサイの何とも言えない可愛さなのです。まさかこれが翌年になって、突然、葉の新芽がモコっと顔を出し、あっという間に葉を茂らせ、花芽をつけることになろうとは想像もできないくらいに、その生命力の減衰の表出スタイルが粗野でワイルドなのが、アジサイの真骨頂でもあり、逆に、その分、アジサイがあまり洗練された印象を感じさせず、どこか雑草的な野性味を色濃く残しているように思わせる原点となっているように思えるのです。
が、幸か不幸か、アジサイのこうした特徴は、そもそも「花はかくあるべし」と期待し、花の使命は人間の生き方・感じ方に大きなインパクトを与える点にあるべし、とする日本人的感覚からは、あまり高い格付けを得ることができなかったのではないでしょうか。
それが証拠に、あんなに豪華で華やかに大輪の花を咲かせ周囲をパッと明るくしてくれるアジサイなのに、その「花言葉」を見てみると「移り気、貴方は冷たい人、無情」などと誠に素っ気ないのです。厳しい寒さや雪に耐えて見事に花を咲かせたり、鳥や蝶とのコラボレーションを通じてより美しい輝きを見せる花々や、厳しい環境に抗して小さくとも凛として自分の存在意義を主張する花に対しては、日本人は誠に好意的ですが、環境にすぐに影響されたり、感じたままの土壌の成分をそのまま花の色として表出してしまう素直で率直なアジサイに対しては、どこか性根がしっかりせず、人に語りかけようとするその花の強い哲学性が感じとりにくいように見られてしまってきたのかもしれませんね。
それかあらぬか、昔からこの国固有の原産の花であるにも関わらず、あまり万葉集や和歌の世界でアジサイのことが詠まれた著名な作品を教わった記憶がなく、せっかく日本原産を誇りに思って必死に大輪の花を咲かせているのに、先人はアジサイにはいささか酷なところがあったような気がしてなりません。所詮は人間の身勝手な価値評価に過ぎないだけに、もう少しアジサイが頑張ってきた様子を評価してあげてもいいんじゃないの、という思いを強く抱いてしまいます。
ところで、「アジサイ」は漢字では「紫陽花」と書かれますが、その語源とは一体何なのでしょうか。私にはその種の知識は一切ありませんが、アジサイと言う花の感じをこれほど見事に漢字化して表した花名は、誠に天下一品だと言わねばなりません。仮に、太陽に映えて咲くアジサイの花の様子を象徴するにふさわしいこの漢字三文字をこの花に充てることで、これまで見てきたようないささか厳し過ぎるアジサイ感を修正し、華やかで美しいこの花を愛でる素直な人間の思いをそこに結実させたのだとすれば、アジサイにとっては正に救われた思いがしたことでしょう。
「いい字を当てがってもらえてよかったね」― そうアジサイに語りかけている葉っぱの上のカタツムリに、アジサイが風に揺られながら「うん、これで溜飲がさがったよ」と言っていたのを、私は聞き逃しはしませんでしたから。
( 平成28年6月1日 記 )
【追記】
今回のメッセージは、植物学的知識の類などを一切持ち合わせていない筆者が、平素、周囲のアジサイと親しく会話しながら、ただただ感性の赴くままに主観的に綴ったものですので、そのようにご理解下さい。むしろアジサイについての学術的特性などをご存じの方は、ぜひお教え下さいませ。