第37回 「彼岸花」考

昨秋撮影した我が家の鉢植えの白い彼岸花。赤とは好対照で面白い。 撮影 三和正明

昨秋撮影した我が家の鉢植えの白い彼岸花。赤とは好対照で面白い。 撮影 三和正明

 
 美しく、精一杯の思いを籠めて咲いてくれる花々ほど、その時々の私たちの思いに寄り添い、私たちの気持を慰め、私たちに感動や勇気や思い出を与えてくれるものはありません。しかも花々は、花鳥風月という美しい自然現象の中にあって、唯一私たちの目の前から逃げ出すこともなく、いつでもこの手に触れることができるという点で、最も優しく暖かい存在として私たちの感性を育んできてくれたように思えます。

 が、そんな花々の中で、一風変わったユニークな存在感を誇示しているのが、9月のお彼岸の頃に咲く「彼岸花」ではないでしょうか。

 まず、そのユニークさの第一に上げられるのは、何と言っても花の咲き方の特異性です。他の植物たちの花々は、咲くべき時期ともなれば、その全体の雰囲気からそれとなく予兆を感じさせるものですが、「彼岸花」は、夏の終わりから秋の初めにかけて何の予兆もなく突然に地面から枝も葉も節もない茎がニョキニョキと地上に突き出てきて、あれよあれよと言う間にその先端に蕾を膨らませるという不意打ちで私たちに勝負を挑んできます。

 その登場の仕方にはいささか不気味ささえ感じさせるものがあり、やがてその蕾からこの花独特の派手でくしゃくしゃした形状の真っ赤(真っ白もあります)な花が顔を見せるに至っては、こりゃ油断ならないぞ、と少々身構えてしまうほどです。

 その開花の仕方のユニークさに加えて、この花の一風変わった特異性として上げねばならないのは花と葉との関係の異常さです。一般の草花では、花と葉との間にそれなりの連携感というものが強く感じられますが、こと「彼岸花」に限っていえば、そうした双方の関連性や相互作用性が全く感じられないのです。

 というのも、「彼岸花」は、花は花だけで突然茎をのばして派手に咲いたかと思うと、そのまま枯れてしまい、その後しばらくは何もない状態が続くうちに、今度は、葉が突然長細い形で根元から生え出てきて、翌年の春まではその葉だけが自らの姿をひたすら誇示するのです。そこには、「お前(花)はお前、俺(葉)は俺」と言わんばかりの強い自主独立性や個性重視の自己主張が貫かれていて、他の植物に見られるような一つの生命体としての花と葉の連帯感や連携性などには目もくれない独立自尊性が溢れかえっているのです。

 同じ一本の植物として、せめて葉は花のために「ここに彼岸花の球根が埋まっていて、秋にはここに花が咲くんですよ」と主張してやってもよさそうに思えるのですが、葉は、薄情にも翌春になると跡かたもなく枯れてしまい、この植物が遂に死に絶えたのかとさえ思わせる状況を呈します。そんな様子を見ていると、ついつい「少しは花と葉のコラボレーションをとることで、命の一体性を示してみたらどうなんだ」と言いたくなるのですが、「彼岸花」の花と葉は決して歩み寄ろうとはしないのです。

「彼岸花」がユニークと思われる3つ目の要素は、その名前の多さとその名前同士の結びつきの希薄さです。たしかにどの花にもそれなりに別称があるようですが、この花ほど多くの別称をもちつつ、それらの名前の相互関係性のなさが顕著な花は、他にはそうないのではないでしょうか。

 例えば「彼岸花」が墓場などに多く群生することから、数多くのあまり縁起の良くない名前がつけられていますが、その一方で、あたかもそうしたイメージの悪さを打ち消すかのように高貴な名前が付けられているといったあんばいです。その高貴な別称こそが「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」という呼び方ですが、広辞苑によれば「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」は、梵語の「マンジュシャカ」のことで、「天上に咲いて見る者の心を柔軟にするという」植物だとされており、およそ「彼岸花」とは異質の花だそうです。

 片や口にするのも忌まわしい別称がつけられているかと思えば、天上の高貴な花の名前も持っている。その両極端性もまた、この花のユニークさだと思うのですが、いかがでしょうか。

 ところで、そんな特性を持つ「彼岸花」ですが、この花には強い毒性があります。一般に強い毒性を持つ植物は遠ざけられるものですが、この「彼岸花」ばかりは、その強い毒性にも関わらず、田んぼのあぜ道やお寺のお庭など、私たちの手の届く身近な場所に群生しているというのも奇妙な話です。

 もともとこの花は中国から持ち込まれたと言われますが、そもそも球根性の植物であるために種から繁殖することはなく、従って、この花が咲いているということは、人が意図して人為的に植えたものだと言うことになります。さなきだに特異な開花形態、不和かとも思えるほどの花と葉の一体感なき関係、不吉な別称の存在といったマイナスイメージに「有毒性」というオマケまでが加わると、通常ならば人々は自分たちの身の回りから遠ざけたはずなのに、どうしてこの花は人里に定着するようになったのでしょうか。

 勝手に想像させていただければ、人は、完璧なものよりもどこか特異で、他とは異質の要素に強く惹かれる特性を持っていることから、この「彼岸花」の謎めいた生態やどこか不気味でありながらも孤高な存在感、さらには友情第一・協調こそ価値などと謳う安っぽい倫理観をかなぐり捨てた花と葉のベタベタしない生き方に、人々は何か惹かれるものを感じとったからではないでしょうか。

 考えてみればその特性に毒が備わっているのも、その風貌からすれば「いかにもありうる」ところであり、毒婦に惹かれる真理にも似て、人々はこの花を捨て切れず、ましてや毒性があるのであれば、その「毒をもって毒を制す」べく、害虫・害獣排斥の道具として、人の役に立たせようと考え、どこか危ういこの植物に少々ゆがんだ好意と愛情を抱くようになっていったのかもしれません。

 そんな風に思えば、開花スタイルは不気味ながら満開となった時の絢爛さ、特に群生状態での満開の見事さ、その独特の赤色と毒々しいながらも決して下品ではないこの花が放つ一種独特の魅力、不吉な名前は仏典による有難い別名を付けることで帳消しにし、その有毒性は害虫・害獣排斥ツールとして活用することで我が味方につけたい、という、人間の持ついささか異常な心理によって、他の花々には全く感じとることのできないこの花独特の危うい魅力に、人々が魂を抜かれたのも無理はないかもしれません。

 最後に好きな一曲で今月のマンスリーメッセージを締めましょう。

「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」と聞いて真っ先に脳裏に浮かぶのは、「赤い花なら曼珠沙華」という歌いだしで有名な昭和13年発売の「長﨑物語」という歌謡曲ではないでしょうか。長崎にあって父が異国の人ゆえに数奇な運命をたどるお春さんの生きざまに、同じ特異性という生きざまで孤高を貫き通してきた「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」の姿をダブらせたがゆえに、このヒット曲が生まれたと思えば、「彼岸花」に寄せる思いがますます募ってくるから不思議です。まもなくその摩訶不思議な開花の時期を迎えることになります。

( 平成28年9月1日 記 )