第38回 運動会

孫の運動会に遠き日の自分を見つける・・・  撮影 三和正明

孫の運動会に遠き日の自分を見つける・・・  撮影 三和正明

 10月といえば、すぐに思い出されるのが、小学校から高校に至るまでの12年間、誰もが経験してきた運動会の光景であり、記憶ではないでしょうか。

 この、いつもとは異なる秋の日のたった一日のために、本番近くになると、リレーのようなクラス別対抗競技に出場する選手たちによる自主練習が放課後に行われたり、体育の時間には学年別団体競技の公式練習が組まれ、更には「予行演習」が実施される頃には、運動会気分はいやがうえにも盛り上がりを見せたものです。

 このように書くと、私などはいかにも運動好きで毎年運動会の到来を楽しみにしていたかのようにとられるかもしれませんが、実際には、およそ運動神経が鈍く、運動会でカッコよくできた記憶などは何一つ残ってはいないのですが、それでも今、改めて越し方を振り返ってみると、運動会というものが醸し出していた一種独特の雰囲気が懐かしく思いだされます。

 特に、本番当日の朝から鳴り渡る運動会モードのレコード曲が醸し出す一種独特のお祭り気分は、運動上手も運動下手もなく心躍るものがあり、「クシコスポスト」や「天国と地獄」などの曲が華やかに響き渡る校庭は、普段見慣れている学校の雰囲気とは全く異質の空間に変じたような錯覚を起こさせるほどに楽しいものでした。

 しかし、いざ、競技が始まると、早く今日が終わってほしいとも思った運動会。特に、苦手な徒競走では、先生が次々に放たれる出走のピストルの音と共に次第に近づいてくる自分の番に高まる胸の鼓動、とうとう自分たちの列がスタートラインにつき、先生の「よーい」と言う声に身構え「パーン」で必死に走るのにどうしても上位に食い込めずにゴールに到達する哀しさ、それでいて嫌いな徒競走からこれで解放されたと言う安堵の思いを胸に所定の自分たちの席に戻っていく時の何とも言えぬ複雑な感覚。運動会を思い起こすたびにそんな記憶が蘇ります。

 そんな運動音痴の私でありながら、今でもあの時校庭に流れていた音楽を耳にすると、楽しかった部分だけが浮かび上がってくる運動会の最大の魅力とは、おそらく運動会という行事の中に内在していた非日常性にあったのではないでしょうか。

 平素はなんのしつらえもない只の運動場にテントが張られ、「本部席」「来賓席」「父兄席」といった平素耳にしないスペースが出現する。平素は土色一色の地上にさまざまな競技用の白線が引かれ、入場門・退場門のポールが立てられ、万国旗がはためく。正に、日ごろの様相とは全く異なる空間がそこに生まれ、その異空間が生み出す独特の雰囲気に包まれた生徒たちが、平素、教室内では味わったことのない異質の上気した気持やクラス対抗心を高揚させるという思いを級友と分かち合い、新鮮で熱い心の結束・連帯を創造していく。そんな非日常的な時間の共有をきっかけにして、自分と他者との関係が深まっていった日々が、今なお運動会の得も言われぬ懐かしい思い出となって蘇ってくるのでしょう。

 学校側もそうした要素を考慮してか、年次が高まるに従って、そうした要素を発現するためのプログラムが組まれてきたように思います。その意味でも、今なお鮮やかに思い出されるのは、高校時代最後の運動会の様子です。どこの高校にも「名物」と称される伝統のプログラムがあるものですが、私の通っていた高校も、旧制の雰囲気を伝え継承してきたような名物プログラムがあり、それが卒業年次の3年生に与えられた特権のようなものでした。

「陸上ボート」と称するそのプログラムは、クラス対抗で最後の高校生活の思いや印象を神輿のような担ぎものである「陸上ボート」に託し、掛け声もろとも校庭狭しと練り歩くといったものでしたが、この時ばかりは運動音痴はどこ吹く風、マイクで告げられる自分のクラスの登場アナウンスにその興奮の渦は一気に高まり、本部席に突っ込まんばかりにボートを担ぎあげ鬨の声をあげるのです。それをにこやかにご覧になっていた担任の先生のお顔が今なお鮮やかに瞼の裏に焼き付いています。

 こうして盛り上がった運動会が終了・解散となったあと、秋の釣瓶落としの夕日が沈んだ校庭で3年生のためだけのファイヤーストームが組まれ、大きな焚火を囲みながら、最後の高校生活の思い出を燃焼させました。そんな場の設営を通して思う存分高校生活の醍醐味を堪能した後は、誰言うともなく大学受験準備モードにごくごく自然にシフトしていき、思いはそれぞれの志望校の突破へとフォーカスしていったのです。

 あの懐かしい日々から早や半世紀強。今では孫たちの運動会を見にいく歳となりました。まだ小学校低学年や幼稚園での運動会ですから、孫たちがそこに何らかの深い意味を感じることなどあろうはずがありません。それでもいつの日か運動会独特の楽しい思い出と友情の素晴らしさを感じとってくれるようになれば、と思うと、遠く過ぎ去った我が青春の日々についつい感傷的になってしまう自分です。

( 平成28年10月1日 記 )