第42回 桜からのメッセージ
毎年のごとく日本中が桜前線に振りまわされた4月もようやく終わり、木々という木々が勢いよく新芽を吹き、天空には鯉のぼりが舞う薫風の5月となりました。
それでも南北に長い日本列島ゆえに、東北以北は今が桜の見どころの時期となっており、現に北海道の満開の桜を見たさに5月から運用が開始されたJRの豪華寝台特急「四季島」の人気が沸騰。それほどに桜は日本人の心を捉えて離しません。
が、その桜、今年は例年に比べると、いかにも天の邪鬼なふるまいが目立ったような気がしてならなかったのは私だけでしょうか。
例えば、東京の桜。いつものように靖国神社の標本樹の開花宣言が告知されたものの、そこから先、東京の桜はなかなか満開にはならず、開花宣言以降満開までの時間が非常に長かった上、いざ満開になってからは、雨が降ろうが風が吹こうが一向に散る気配を見せず、予報官が「この土日が最後の花見の機会」などと声を大にして叫ぼうが、花を散らす風雨の強さをいくら強調しようが、なお東京都内の桜は週明けも頑として満開状態を維持し続けているといった按配でした。
同様に、いつもなら順調に北上していく桜前線が今年は順不同状態で好き勝手に進行し、例えば鹿児島の桜などは随分遅くなってからようやく開花するという、まだら模様の進行となったのも、いつもとは異なる天の邪鬼ぶりでした。
それ以外の各地でも、例年とは様子が異なる桜の開花現象が起きていたのではないか、と思うのですが、実は、私自身、そういうことが起きる以前から、桜に関して非常に気になっていたことがあり、実際に上述のような現象が今年各地で起きたことによって、ついにその懸念が現実のものとなってきたのではないか、と真剣に心配しはじめたことを、まずは正直に告白しなければなりません。
他ならぬその告白とは、桜の開花時期を、私たち人間が宣言するという文化習慣に対して、当の桜は一体どう思っているのだろうか、という疑問を以前からずっと胸に抱いていたということであり、少なくとも桜は、自らが咲くに足ると認識できる諸条件が充足された時に自らの判断で開花するのであって、その諸条件をまるですべて我々が承知・関与しているかのような気になって「開花宣言」を発するなどというおこがましいことを本当にやっていていいのか、という心配でした。
私たちは科学の進歩により大自然の仕組みを解明できたつもりでおりますが、そもそもその不遜な発想そのものが桜からすればチャンチャラおかしいのであって、たまたま開花のタイミングを決める諸要素の7割(実際にはもっと少ないかもしれません)くらいは生物学において発見されているかもしれませんが、残る3割(実際にはそれ以上かもしれません)については未だ何にも分かっていないかもしれないのに、よくまあ全てを知り尽くしているような顔をして、開花時期や落花時期を宣言・予測するものだ、と桜はずっと苦々しく思っていたのではないのでしょうか。
それでも桜は、敢えて人の文化に抗することなく、時が来れば黙って咲き、黙って散ることを繰り返してきました。それが桜の桜らしい生き方だったからですが、昨今、人間は、自然の摂理や法則と言ったもののごく一部しか掌握できていないにもかかわらず、科学の力で何でもコントロール出来るかのような錯覚に陥り、かつその傾向に益々拍車がかかる一方となってきていることから、流石の桜も何らかの行動を起こし、自分たちのメッセージを私たちに伝えねば大変なことになると、腹を固めたに違いありません。
そこでまずは、人間のこの恐れを知らない傲岸不遜さに警告を発するために、この際、知ったかぶりの人間の浅知恵をまずは嘲笑ってやろうと言う気持ちから、桜の開花・落花についての人間の予測・予想をことごとく外し、例年通りの経験値を覆してみせる、といった「天の邪鬼的行動」を取ることによって、この先、人々が誤まった方向に進むことのないように気づかせようとのメッセージを配信したんだ、と、私は直感したのです。
そういう思いから改めて桜の知恵や生態について考えてみれば、私たち自身は一体どこまでその真実を正確に知っていると断言できるでしょうか。例えば枝垂れ桜の枝垂れの枝の先は、どうして地面すれすれでその成長を止め、決して地べたに枝を這わせないのでしょうか。おそらく科学的な説明では、例えば当初は地面に着地してもなお成長をやめなかったが、そこから害虫が侵入してきたり、地面の熱や湿気で茎や葉に悪影響が出る、などの弊害が出たため、地面直前で成長を止めるように進化した、とか何とかもっともらしい説明が行われるのでしょうが、それでいかにも分かったような気にならないで、果たして本当にそうなのか、むしろ桜には私たちが想像もできないような高度の判断能力が備わっているのではないか、といった謙虚な気持ちと桜への敬意を払う深い想いを大切にする姿勢をこそ磨いていかなければいけないのではないでしょうか。
今年、桜の親子がまるで人間の親子と同様、いやそれ以上にそっくりであることを知った時も驚きました。奈良市学園前駅からほど近い場所にある清楚な美術館「大和文華館」の前庭に、福島県三春町の天然記念物として有名な「三春の滝桜」の子孫が植えられていると聞いて、実際に見に行ってきたのです。大和文華館本館の前庭に植えられたその子木は、三春の滝桜の種子から発芽させた苗を大和の地に植えて育てられたものですが、その姿・形がよく写真で見る「三春の滝桜」にそっくりなのに心底驚嘆したのです。
確かに親木の方は、樹齢千年を超えると言われる大木ゆえに、その幹・枝が放つ妖しげな造形美は圧巻と賞される名木であり、それに比べれば、たかだか樹齢30年に過ぎない子供の幹は、まだ細くて直立した若木の印象が否めないものの、今、目の前で満開の花を誇るその枝垂れの樹形は本当に親にそっくりであり、やがて千年の時を経れば、ここにも大和の滝桜が妖艶な美しさを放っているであろうと容易に想像できたのです(およそ枝垂れはみな似たような樹形になるさ、と言った覚めた見方もあるかもしれませんが、毎回愛用のカメラの中にこの日チップを入れ忘れるという失敗をしたため、やむなく携帯電話で撮影した本メッセージの表題の写真でとくとその樹形をご確認下さい)。親に似た子ができるという生物世界の真理が普段そうした認識で見てはいない植物世界においてもフルに発揮されている事実に、私は思わず頭を垂れました。
ちょっと桜に過剰反応したエッセイになってしまいましたが、最後に、名歌を一句。引用する元歌は童謡「七つの子」。同類の先読み手はドリフターズ。我が駄作は今年の桜が発信しようとして思わず歌いあげた次のフレーズでした。
「サクラいつ咲くの、サクラの勝手でしょ」・・・・お粗末さまでした。
( 平成29年5月3日 記 )