第43回 蝉の妄動

 

蝉の抜け殻の代わりに見つかったカマキリの脱皮の残骸  撮影 三和正明

 早いもので8月も余すところ1週間、天候不順が際立った今年の夏も幕を閉じようとしています。そんな中で、天候と同様に気になった夏の風物詩がありました。それは、今年の蝉が見せてくれた例年とは随分違う雰囲気でした。

 皆様のお住まいの周囲ではどうだったかは存じませんが、我が家の周囲で夏の真っ盛りを迎えた蝉たちの様子が、どうもいつもの夏とは趣を異にしていたのです。

 そもそも蝉の蝉たるゆえんは、あの猛烈な鳴き声にあります。小さな体からは想像もできないくらいの音量で、それも一斉に集団で鳴きわめくものですから、人の会話さえ聞きとれなくなるほどで、特に夏も終わりに近づくと、ありとあらゆる種類の蝉が、お互いに負けん気100%で生涯最後の大合唱を演じますので、周囲の一切の音を掻き消す猛烈な「蝉しぐれ」が降り注いでくる、というのが、真夏の定番の風景でした(余談ですが、これに静寂を感じとった松尾芭蕉翁の非凡さは世界に誇りうる我が先人の傑出した感性ではないでしょうか)。

 このため、住宅地でも蝉の抜け殻は随所で発見され、早朝の「チチー」と言う蝉の羽化の完了を示す第一声が、これから始まる蝉の男声大合唱の幕開けを予感させたものです。
蝉も不思議なもので、ちょうど演奏会でコンサートマスターが音合わせのバイオリンの第一音を発するのと同じように、リーダーが音合わせの第一声を上げると、待ってましたとばかりに各蝉が一斉に精一杯の鳴き声を立てるのです。

 この時、どうも蝉の種類間での取決めがあるようで、各種類が同時に一斉には声を立てず、そのシーズンのリーダー群がメインとなって、精一杯に鳴き声をたてる間は、他の種族は静かに待機しています。やがて先発種族がひとしきり名音声を披露し終えると、次の種族がそれに続いてご自慢の大合唱を披露します。その種族間の個性的な鳴き声が順番を追って披露される雰囲気は、実に楽しく、かつ美しくて、蝉ファンにはたまらないひと時が真夏の空間に広がっていくのです。

 しかもどの蝉も、フライングしたり遅れて一人で鳴いていると言ったぶざまなことはなく、各種族の名演奏をたっぷり聴いた後に、しからば、と自分たちの演奏をスタートさせるタイミングがまたたまらないほどに絶妙なのです。

 無論、大合唱は他の種族に聞かせるために行っているのではなく、あくまでも個々のオスが自分の好みのメスを呼び込もうとして大声を上げているのですが、そのそれぞれの思惑が全体として調和して行く様は、群れの中の個の多様性の素晴らしさを感得させるという点で、実に美しいのです。

 この男声大合唱を聴いているメスも、よくあんな喧騒の中で自分の感性と合うオスの声を聞き分けるものだと感心させられますが、いずれにせよ明らかに無数のカップルが誕生し、それが子孫を残すと言う崇高な営みを営々と繰り広げてきたのであり、この喧騒感こそが蝉の存在感で有り、季節感だったのです。

 が、今年の夏、その喧騒感が掻き消えました。鳴き声を聞くことがあっても、例年、耳をつんざくほどに大合唱してくれていたあの途方もない喧騒感が、姿を消したのです。
たまに蝉が鳴いていると感じられる時でも、一匹が頼りなげに鳴くだけで、あの大合唱へと発展して行かないのです。地上に姿を現し羽化した個体数自体がどう考えても少ない上に、各個体の肺活量(?)にも問題があるらしく、朗々とした鳴き声が長続きしないのです。

 その結果、例年のようにその限界を知らない程の大音量の合唱隊を組成することが出来ず、頼りなげに独唱する個体が、物静かに声を発するばかりなのです。しかもその現象はどの種族間にも共通していて、静かといえば誠に静かな、その分、本来の真夏らしさが感じられないままに、この夏のシーズンを終えようとしているのです。

 こんな感想を抱いていたのは私だけかと思っていましたら、なんと名古屋に住む友人が次のようなメールを打ってきてくれて、どうもこの異常事態が全国的な現象かもしれないと思いはじめてきたのです。

 その友人の曰く「今年の夏は鈍い私にも『何か変だな』という天気が続いています。じわじわと温暖化の影響が実感されるようになってきましたね。いつも梅雨が明けると不思議なことに一斉にアブラゼミが鳴き始めますが、今夏はそれもいつの間にか声が小さくなり、代わって登場するクマゼミも少しの期間鳴いていましたがいつもより早く声がだんだん聞こえなくなって早々と静かになっています。」と。

 そして個体数の少なさを象徴するかのように、今年の夏は、身の回りに蝉の抜け殻が殆ど見つかりません。いつもは我が家のような狭い庭でもいくつかの抜け殻が草木にしがみついているのですが、今年は皆目発見できず、見つかったのは本稿冒頭の写真に掲載したカマキリの脱皮の残骸のみで、蝉の個体数の激減を痛感させられる現象だけが現実のものとなりました。

 一体これはどういうことなのでしょうか。前回のクオータリーメッセージ(4~6月号)で「桜からのメッセージ」と題して、桜が一向に我々人間の予想通りに開花・満開・落花のプロセスを辿ってくれない実情をエッセイさせていただきましたが、ひょっとして蝉たちも、何らかの意図で、今年の夏への臨み方を変更することにしたのでしょうか。

 この謎を解くためには、いま成虫となっている蝉たちの親が卵を産んだ7年前(厳密には種類によって年数は様々でしょうが)に、何があったのかを蝉に聞く必要があります。もし何らかの理由で、産卵数が激減して今年の夏に地上に出てくる蝉の個体数が大きく減ったのであれば、今夏の大合唱が聞けなかった説明は可能となりましょうが、7年前に何か蝉の産卵数を減らすようなことがあったのかどうかを調査することなど私には到底無理なことです。

 で、色々と考えてみた結果、あることに気が付いたのです。すなわち、蝉が我々人間の真似をしているのだ、ということに。

 今、人間社会では、適齢期になればさっさと結婚し、さっさと子供を作り、世に言う一人前になっていくことを若い人々が忌避する現象が起きています。かねて先輩の蝉たちから、人間は万物の霊長として崇めるように夏季「セミナー」で教えられてきた若い蝉たちが、人間社会のこの現実を知り、その真似をしよう、そうすれば蝉族も進化するに違いない、と考えて、地中生活の満期日を迎えても一向に地上に上がらず、今なお多くの蝉の幼虫が地下に潜んでいることが、地上の蝉の個体数の減少に繋がっているのではないでしょうか。

 たしかに地上に出て何かいいことがあるかと言えば、あるのは天敵に命を狙われ、かつ1週間鳴き通したら死を迎えるだけ、という厳しい現実だけ。そんな地上生活なら、引続き地下でチューチューと木の根っこの甘くて美味しい養分を吸いながら、何の不安も怖さもない日々をエンジョイしていればいいではないか。別に自分一人が子孫を残さなくとも蝉族全体が滅ぶと言うこともないし、滅んだところで自分には何の関係もないさ、流石は人間様だわ、よく考えておられることよ、という思いを抱く蝉の幼虫が地中で激増したとしても何の不思議もないのではないでしょうか。

 小さい頃よく親に言われました。「そんなことをしていたら小さい子が真似をするからやめなさい」と。でも、今、蝉たちが人間の真似をしたら凄い種族に進化できるかもしれない、と思いこんで、本能に逆らって地上に出るのを先延ばしにしているのだとすれば、私たちは蝉に向かってきちんと言うべき真実を言わねばならないのではないでしょうか。

「人間の真似をするという軽挙妄動だけは、おやめなさい。
碌なことにはなりゃしませんから」と。

( 平成29年8月25日 記 )