第44回 「芸術の秋」― 晩秋の「国宝」三昧

 

国宝三昧での疲れを癒してくれた大田黒公園の池面に映える紅葉  撮影 三和正明

 この国ほど見ごたえのあるものが豊かに存在する国はないのではないか。今年の晩秋は、つくづくそう思えるほどに贅沢な時間を堪能してきました。

 そのきっかけとなったのは10月半ばの興福寺の往訪からでした。今、話題の文庫本である「応仁の乱」を読んで、興福寺がこの乱の影響を色濃く受けた事実を知ったことで、小学校の遠足以来となるこの藤原氏ゆかりのお寺を訪ねてみたくなったのです。

 が、いざ出かけてみると、お寺の前の猿沢の池からはかすかに小学校時代の記憶が蘇ってはきたものの、お寺そのものへの記憶はほとんどなく、現に、かつて南都北嶺の象徴的存在として興福寺の入口に聳え建っていたであろう豪壮な山門もなければ、寺域と外部を明快に区分する壮大な塀もないことから、せっかく厳かな気持ちで境内に入ろう、と張り切ってやってきた思いはカラ振りに終わり、何とはなしにお寺の敷地に入ってしまうという今一つ感動の湧かないスタートとなったのです。

 その軽い失望感を打ち破ったのが、すぐに眼に飛び込んできた国宝五重塔の美しさでした。東寺の五重塔に続く我が国第二の高さを誇ると聞くその塔が放つ気品と壮麗さには思わず息を呑みました。そうか、軽い幻滅を感じさせておいて、この五重塔で一気に感動させるのか、と、妙に感心しながら境内を進んで行くうちに、ようやく厳かで霊気に満ちたものを感じとったのでした。

 確かに境内は、中金堂再建工事が山場を迎え、整然とした伽藍の光景を期待して往訪した身にはいささか雑然とした印象が強かったのですが、その反作用として思わぬ喜びが待ち受けていました。というのも、工事開始の影響で寺宝の展観場所も仮講堂と呼ばれる簡素な建物に移されていた結果、その狭い建物の中で、あの感動の仏像「国宝・阿修羅像」に出会うことが出来たからです。仮屋内の狭さゆえに、手が届きそうな距離のところにあの国宝の阿修羅像が安置されていて、その美しくか細い何本もの手の微細な表情や三方を向いたお顔のそれぞれの特徴ある形相が手にとるように覗われ、とりわけ教科書でおなじみのあの正面のお顔は、それまでの乱暴・邪心に満ちた生活態度から仏法に帰依したがゆえに刻み込まれた深い哀惜と慈愛に満ちた表情で、面と向かって正対できるという幸運に恵まれたのです。しかも少々場所を移動しても阿修羅は一切視線を外されずにじっと私の眼を見続けておられるのです。私は陶然として立ちつくしました。

 しばしの時を経てその場を離れようとする私に向かって、そのお顔はなおも視線を逸らされずヒタと私を見据えられたまま何かを言われようとしておられるようでした。それはまるで「よく見よ。これが日本の国宝ぞ。先人が命がけで今日まで残してきた民族の宝ぞ。よくよく心してその意味と価値を胸に刻まれよ」と言っておられるように思えたのです。工事のお陰で実現したこの得難き出会いに私は深く感動し、心の底から合掌したのです。

 明けて11月の初旬。日本の名立たる国宝を京都に集結させて「国宝だけの展観企画」を実現させた京都国立博物館に出かけました。京都国立博物館が開館し、一方で「国宝」と言う言葉が誕生して以降ちょうど120年が経過したのを記念して行われたこの展覧会は、10月3日から11月26日までの開催期間を4期に分けて実施されたのですが、その間に展示された国宝の総数は入替え分を含めて延べ260点に及び、教科書でおなじみのものもあれば、見たことも聞いたこともない展示物まで、よくまあこんなに沢山の宝物が日本全国にかくも大切に残されてきたものだ、と感心しながら、食らいつくようにして鑑賞してまいりました。

 そんな中で、圧倒された展示物の一つが大阪金剛寺の大日如来座像とその脇持仏としての不動明王坐像でした。なにしろ広い会場内にあって、そこだけは全くの異界空間かと思わせるほどに周囲に霊気が放たれていて、誰もがそこでは口を噤みます。空気を圧するとはこういうことかと思わせる存在感が部屋中を覆い尽くしているのです。往々にして美術館という空間で拝観する仏像は神々しい美術品と化しがちですが、この両仏像はエネルギーを場内に発散させてやまないのです。ましてやどこの寺宝かと言えば、我が出身地の大阪とあるではありませんか。大阪というだけで一体どこにあるお寺かも知らない癖に、
「見てみい。これが大阪のパワーや」と叫びたくなるのを必死に抑えながら心地よく圧倒され続けていたのですが、突然どこからともなく不動明王の野太い声が聞こえてきました。
「大阪、大阪言う前に実際に金剛寺に拝みに来んかい、このたわけもんめが」と。

 さらに強烈に心に残ったのが桃山時代の長谷川等伯・久蔵親子と江戸時代の丸山応挙が残した屏風絵が一堂に展観された大きな部屋でのことでした。長谷川等伯の傑作「松林図屏風」、息子久蔵の「桜図壁貼絵」、丸山応挙の「雪松図屏風」の3点が、片仮名のコの字型の形状の部屋の壁に沿って一面に一点づつ展示されていたのですが、等伯の「松林図屏風」だけが他の絵とは全く異質のエネルギーを感じさせていたのです。

 久蔵の「桜図壁貼絵」と応挙の「雪松図屏風」は共に強烈なエネルギーを四方に放って輝いていたのに対し、等伯の「松林図屏風」だけは全てのエネルギーをどこまでも吸いつくしてやまないのです。この「発散」と「吸収」という両極端の作用が一つの部屋の中で発生し、摩訶不思議な空間を形作っていたのです。そして人々は結局すべて等伯に吸い寄せられ、閉館時刻ギリギリまでそこにいた私が目撃したものとは、この部屋に残っていた全ての人々が全員等伯の絵の前に吸い寄せられ、その前で立ち尽くしていた光景だったのです。

 それにしても、そもそも襖絵とはどんなものかという通念が確立していた時代にあって、およそその通念とは異質のどこまでも寂しくて沈鬱な光景が描かれた「松林図屏風」が、よくもまあ今日までこんなに完璧な形で残されてきたものだと心底感心したのですが、
そう思った瞬間、我々が決して忘れてはならない大切な真実がそこに隠されていると言う事実に目覚めさせられたのです。

 というのも、私たちは国宝のような素晴らしい作品を見ると即座にその作家の凄さに感心するのですが、その一方で、その作品を評価し、珍重し、継承してきた優れた発注者(権力者)や継承者(評価者)の鑑識眼の凄さにも同等もしくはそれ以上に感心しなければ、本当の日本の国宝の存在意義や真の価値は理解できないのではなかろうか、との思いが全身を駆け巡ったのです。この双方の偉大さと相互関係性が存在して初めて、今、目の前にある国宝が今日実在し得たのだということを「松林図屏風」を見て再認識させられたのです。日本人の美意識の凄さはこの双方向の感性があってこそ成り立ってきたのだという事実に目覚めさせられたのです。この国の凄さをともすれば事象の一面でしか捉えずにいる私たちへの警鐘が乱打された気がして、思わず姿勢を正した瞬間でした。

 この国宝展の最後の話題としてお話しすることがあるとすれば、福岡の志賀島で見つかった「漢委奴國王」と彫り刻まれた金印でしょう。実は、これを見るために会場内の階段に長い行列ができていて、そこに並ばないと見られないと言うので、折角来た以上は何としても見たいものの、ここに並んでいては他の国宝を見る時間が無くなってしまうためやむなく断念したのですが、なんと最上階まで来たら、割込みされないようにロープで囲まれた空間の中のまん中にその金印が展示されており、ロープの外からも十分に見ることができると言う幸運に恵まれたのです。現物を見る効用の一つはその実際の大きさを知ることができるという点にありますが、金ピカに輝くこの方形の印の一辺は2.3センチと想像をはるかに超える小ささ(単体の国宝としては最小)で、教科書にアップで写された写真でしか知らなかったこの国宝の実物に心底驚いた次第です。

 さて、この京都国立博物館の素晴らしい企画の向こうを張って、9月26日から11月26日までの2ケ月間に亘って展示公開されていたのが東京国立博物館での「運慶展」でした。この展覧会は「興福寺中金堂再建記念特別展」と銘打たれており、ここでも興福寺との不思議なご縁を感じましたが、内容的には運慶の父康慶の作品から始まり、運慶のデビュー作品とその後の運慶の仏師としての表現力の進化過程を克明に追い、最後はその子湛慶や康弁たち親子三代の傑作を一同に集めるなど、数多くの国宝が動員展示された大変なスケールの展覧会で、正に東西の両国立博物館が威信をかけて企画・公開したことを如実に実感できる見事な催しとなりました。

 ここでの圧倒的展観物と言えば、これも教科書でおなじみの興福寺の国宝「無着菩薩立像・世親菩薩立像」でしたが、特に「無着像」は、写実を越えて感じとれるその像の内在的精神性というものを彫刻と言う表現技術でよくまあここまで達成できたものだと驚愕させられました。確かに教科書の写真で見た通りのものなのですが、すぐ目の前にある実際の仏像として拝観すると、その大きさと精神性を象徴する無着の眼差しや背中の表情から醸し出されるリアリティーのすさまじさに、これが本当に鎌倉時代に造られた作品なのか、と改めて仏師運慶の偉大さに舌を巻いたのです。筋肉隆々の肉体の写実性は洋の東西を越えて表現されてきたように思いますが、心の状態までをも感じさせる深い表現力の凄さに、この国の先人たちの時代超越的かつ地球規模的ハイレベル性を感じとって、涙が出るほどに誇らしく思えたのです。そして京都での等伯との出会いで感じたのと同様に、ここまでの高い芸術性を評価した施主(発注者)の審美眼の確かさを心底思い知らされたのでした。

 会場の出口近くの部屋には、運慶の息子や弟子たちの作品が並べられていました。その中の国宝「天燈鬼・龍頭鬼像」の絶妙の写実力と重い物を必死に捧げる両鬼の滑稽な表情に、これまでの緊張感を心地よくほぐしてもらい、ようやく上野の会場を後にしたのです。

 奈良興福寺に始まり、京都、上野と圧倒されるものばかりを見歩いてきて、結構疲労感が残った晩秋の国宝の旅でしたが、それらを癒してくれたのが何と家の近所の紅葉の美しさでした。我が家から歩いて20分ほどのところにある「大田黒公園」。そこの紅葉がライトアップされて池の水面に映っている光景をテレビ中継している番組を見て魅了され、翌日から3日連続(初日曇天のお昼・2日目夜間照明時・3日目快晴のお昼)で出かけていき、相当量の写真を撮りました。昭和の著名な音楽家である大田黒元雄氏のお屋敷跡の一部が杉並区に寄贈され、区民の憩いの場として無料開放されている施設ですが、国宝疲れしたこの身には、ぶらぶらと気軽に行ける近所の公園の美しさが何よりの癒しとなったことと、こんなさり気ない場所にも美しさを追い求め続ける先人の心の豊かさが息づいていることを感じとって、「やっぱり日本」との想いと感謝を新たにしたのです。

( 平成29年12月10日 記 )