堀川今出川異聞(2)

いわき 雅哉

 

堀川今出川の交差点標識

堀川今出川の交差点標識  撮影 三和正明

 

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 とにもかくにも柾樹の京都逗留に向けての決心はこうして固まりはしたが、最初の難題は家族への説得だった。退職まで早や2ヶ月を切り始めたというこの時期、てっきり自宅に帰ってくると思い込んでいる家族に、今更こんな唐突な話をどう切り出せばいいのだろうか。穏やかに退職の日を迎え、万感の思いを胸に東京に帰る。家族もそんな柾樹を暖かく迎える。そういう構図が柾樹にも家族にも描かれているはずのこの時期に、一体どういうことからこんな話になったのか、をどう順序だてて話せば、家族の理解は得られるのだろうか。そう考えると、柾樹は憂鬱な気分に襲われ、話をついつい振り出しに戻したくなる誘惑と戦わざるを得なかった。

 「腹を決めて率直に話そう」- そう覚悟した柾樹は、いよいよ退職まで1ヵ月半を迎えた時点で眦を決して東京に帰り、久しぶりに妻の美佐子とまだ家に居る末娘との3人で夕食を共にしたあと、勇を振るって自分の思いを切り出した。当然二人は、柾樹のこの突然の告白に驚愕し、その理由を質した。柾樹はさすがに「どこからとも知れず声がしたので」などとは言えず、自分の発意として決心した京都逗留の意義をあれこれ説いてはみたが、まるで木に竹を接いだようなしどろもどろの話に、美佐子と娘はただ唖然として柾樹の顔を見つめていた。

 しかも柾樹の話では、ただ「京都に住みたい」の一点張りで、広い京都の一体どこに住むのか、その際の家賃や食費、諸雑費など京都生活を具体化していく上で当然検討しておかねばならないディテールについての説明が全くない。そうしたことを家族が質問すれば、「さあ、それはまだこれから」としか答えられない柾樹の反応に、美佐子は「この人、長い単身生活の果てに、とうとうおかしくなったのか、それとも京都に好きな人でもできてそこに転がりこもうとしているのではないかしら」とまで勘ぐる始末だった。

 が、もともと柾樹には地縁もない京都の女性と恋に落ちるなどといった粋な度胸などかけらもないことを知り尽くしている美佐子は、何度も柾樹の本気度合いを確認した挙句、意外にもあっさりと「あなたが本当にそうしたいと思うんだったら、そうしてみたらいいじゃない」と言い、娘も娘で、この唐突な話にもうこれ以上付き合いきれないと言わんばかりに「ま、あと2年、単身赴任が延びたと思えばいいんじゃないの」と食卓から自分の部屋に戻ろうとしたことで、柾樹の申し出は何とか了承された格好となった。柾樹は、本当にこれでよかったのか、それともこれで家族との絆を自らの手で崩壊させてしまったのではないか、といった思いを心の中に交錯させながら、ただ、ボソっと「分かってくれて有難う」と頭を下げた。

「あら、もう大阪に戻るの」

 翌朝、帰り支度をしている柾樹に美佐子が声をかけた。

 「う、うん。退職までにやり残していることが一杯あるんでね」

 「そう。ならいいけど京都に住むんだったら、落ち着き場所を早く上手に探さないと、同じ一人暮らしと言ったってこれまでの単身赴任とは全然環境が変わるんだから」

 「分かってる」

 「それとこの際、捨てていくものは思い切って処分して身軽に京都に移らないと大変よ。さっさと決めて次々と済ませていかなきゃ、ほんとにあっという間にその日が来ちゃいますからね」

 「うん、そのつもりだよ」

 そんな会話を終えたあと、柾樹は大阪に戻っていった。

 新大阪駅に着いた柾樹は、構内の書店で京都市街地図を買い求め、単身寮に帰り着くや、逗留場所の特定にとりかかった。確かに、美佐子が言っていたように、京都と言っても色々なところがある。いくら「女ひとり」という歌が好きだからと言って、都会暮らししかできない柾樹には「大原」や「栂ノ尾」はいかにも遠すぎる。さりとて四条界隈の繁華街のど真ん中では東京・大阪と何一つ変わらない。やはり周囲に京都の名所旧跡がたっぷりあっていかにも京都らしさが感じられる地でありながら、買い物や生活利便性もしっかりと確保でき、都心へのアクセスや東京に帰るのにも便利な場所がいい。

 柾樹はそんな身勝手な条件をイメージしながら、地図上で「いかにも京都らしさが感じられる地とは一体どこだろうか」とあれこれ指で追ってみた。京都には神社や仏閣が至る所にあって、京都市街の中心部であっても随所に寺社のマークが記されている。そんな京都の町のど真ん中ともいえる場所に、大きな長方形の区画がデンと存在感を示しているところがあり、柾樹の目はそこに吸い寄せられた。京都御所だ。確かに、これ以上に京都を象徴する場所は他にない。柾樹は、御所を基点として逗留場所を定めようと即座に決心した。

 となると、烏丸通沿いがベストだが、地下鉄へのアクセスが良い分、家賃はきっと高かろう。なら、地下鉄からは少し離れている分、家賃も少しは安い場所はないものか。そう思った柾樹は、御所から目を離し、俯瞰的に地図を見直してみた。すると、烏丸通よりも西に烏丸通と並行するように京都市中を南北に走る太い道路が目に入ってきた。堀川通だ。その堀川通を南北になぞってみると、沿道には国宝・世界遺産の二条城や西本願寺などが建ち並び京都らしさに事欠かない。地下鉄の走る烏丸通までもそんなに距離があるわけでもないのに、烏丸通沿いよりも少しは家賃が安くなるようならそれで十分じゃないか。柾樹はそう考えて「堀川通、堀川通」とつぶやきながら御所と堀川通の間を指でなぞっていると、何となく「ここ、ここ」と声が聞こえた気がして、手を止めた。指の先には「堀川今出川」という地名が書かれている。

 御所の北端を東西に走る今出川通と堀川通とが交わる場所「堀川今出川」。そこを基点に地図を仔細に見れば、御所・京都御苑・相国寺は徒歩圏内、下鴨神社・大徳寺・今宮神社・北野天満宮・妙心寺・二条城なら自転車の距離、金閣・銀閣・仁和寺・上賀茂神社や祇園・四条・河原町ならひっきりなしに走り回るバスが使える、という好立地。それでいて周辺には食堂・コンビニ・食品スーパーが豊富なうえ民家も数多く軒を連ねている雰囲気が地図上からも伝わってくる。柾樹のような人間がちょっとした京都暮らしを体験する場所としては格好の拠点ではないか。

 「よし、ここだ、ここにしよう」

 柾樹は「堀川今出川」の交差点に赤ボールペンで幾重にも丸をした。

 インターネットで堀川今出川界隈の賃貸情報を調べると、格好のマンションが賃貸物件として表示されていた。「賃貸期間2年間で更新なし」という条件は、寄り道にはまことにふさわしく、柾樹はすぐに賃貸業者に電話をした。翌日の日曜日に往訪した賃貸業者の話では、初稿で出したとたんに柾樹から電話が入ったのだ、と言う。早速物件を確認に出かけ、住みやすそうな部屋だったので躊躇することなく賃借契約を交わした。何事にも慎重な柾樹にしては異例のスピード決断だったが、「堀川今出川」という場所といい、このマンションといい、何かに誘導されて決まっていったような感覚が柾樹の胸のうちをよぎった。

 だが、そうした感覚の一方で、柾樹自身が「ここに住みたい」と強く感じたのには、名所旧跡へのアプローチの良さが抜群だったからという理由のほかに、もう一つ柾樹らしく憧れる明快な理由もあった。それは、たまたまこの時期に柾樹が読んでいた二つの小説の中にこの地名が書かれていたことだ。

 一つは、ちょうど読み始めた吉川英次著「新・平家物語」の第一巻冒頭。主人公平清盛の生まれ育ったところが「都も場末の今出川の荒れやしき」と書かれてあったことだ。柾樹は「そうか、清盛が『来いよ』と呼んでくれてるんだ」といつもの夢想に囚われた。

 いま一つは、そのころ日経新聞朝刊に連載されていた安部龍太郎氏の小説「等伯」で、その随所に堀川今出川近辺の名所旧跡の名前が登場していたことだ。

 たとえば等伯が一時期身を寄せていた本法寺。等伯の作品が重要文化財として大切に保存されていることからも、またこの寺の大檀那でもあった本阿弥光悦ゆかりの古刹としても有名な寺院だが、その本法寺までは地図でみればこのマンションから堀川通を北に徒歩10分弱という近さである。また等伯のライバルでもあった狩野派の拠点・住居跡は、地下鉄今出川駅に向かう途中にあったといわれるなど、柾樹にとっては「堀川今出川」は実に濃密な印象を伴う地名だったのである。柾樹の脳裏にあったそうした断片的な情報が、地図上でこの地名に遭遇した瞬間に凝結し、京都逗留地としてこの地以上の場所はないとの思いに繋がったことが、この地に住むことを決めた強烈な誘因となったのだ。

 いよいよ退職を目前にしたある日、すでに悠々自適の日々を送っている同期の親しい友人たちが、柾樹の退職祝賀会を開いてくれた。その席上、柾樹は家族以外の誰にも話してはこなかった京都への寄り道計画を初めて打ち明けた。

 案の定、皆は驚きの声を上げた。

 「何、淡見、お前まっすぐ東京に帰るんじゃなかったのか。京都に寄り道するって、そりゃどういうことなんだ」

 「淡見よ、何でまたそんなことを思いついたんだ」

 柾樹は、まさか「天の声がそうしろと言ったのでね」とは言えず、

 「いや、今までは辞令どおりに動いてきた人生だったじゃないか。だから、せめて最後くらいは辞令とは関係なく住みたい場所に住んでみて、それからゆっくり自宅に帰ってやろうと考えたんだよ」

と、いかにも自分で導き出した結論かのような顔をして答えた。

 「いや、お前はそれでいいとしても奥さんがよく了解してくれたな」

 と、別の友人が言う。

 「うん、意外にあっさりとな」

 「それは奥さんに感謝しないといかんな、淡見。俺だって単身赴任で退職を迎えたんだが、家に帰る前にどこかに寄り道しようなんて発想は全くなくって、何はともあれ一目散に家に帰ったんだけど、淡見の話を聞くと何だか勿体ないことをしたような気がしてきたよ」

 「たしかに淡見の言う通りかもしれん。俺たちは、本当に指示されたところに行ってはまた次の転勤場所に移っていった人生だったもんなあ。だから単身赴任が終わったらあとは当然自宅に帰るということしか頭にはなかったよ」

 みんなの賛同に気をよくした柾樹は、「例の声」に言われてようやく決めたことなどすっかり忘れて、まるで自分がじっくり考えた挙句に出した結論であるかのように話した。

 「俺は、つくづく思ったんだよ。社会人になってからはずっと辞令どおりに転勤を繰り返してきた。その結果、退職辞令という最後の自由選択が許される時でさえ、弾かれたように自宅に直帰する。それって思考停止なんじゃないのかな、ってさ」

 「ふーん、思考停止ねえ。そう言われてみれば淡見の言うとおりかもしれないな。だって京都に住むっていう選択なら、俺の方がお前よりずっと必然性があっただけに残念だよ。学生時代の思い出も多いし、ロマンの残る場所も一つや二つじゃないし、俺ならきっと哲学の道あたりで決めてたかもな」

 「何だか俺もそうしたくなってきたけれど、いくら何でも今更はなあ」

 柾樹は、自身の京都寄り道プロジェクトをみんなが驚きと羨望の思いで話すのを聴きながら、益々気をよくして言い放った。

 「本当にその気があるんなら今からでも十分間に合うぞ。簡単な話さ、賃貸マンションを借りさえしたらいいんだから」

 「淡見はそう簡単に言うけれど家族が文句をいうだろう。淡見の家族はずいぶん物分りがよかったんだなあ」

 「いや、実のところもっと反対されるかと俺も思ったんだ。ところが、話を切り出した当初は質問攻めにあったんだけど、後半には急に『やってみたら』というトーンに変わって、実はホッとしたんだよ」

 そんな話で盛り上がっている時に、仲間の一人が全く予想もしない切り口で話に割って入った。

 「おい、淡見。お前の奥さんは物分りがいいというよりも、賢いんだよ」

 「賢いって、何で」

 「考えても見ろよ、淡見。退職直前まで7年間も単身赴任で家を空けていた旦那に帰ってこられてみろ、誰よりも奥さんが大変じゃないか。毎日食事の用意はしなきゃいかんわ、一日ダラダラ家に居られるわ、で、奥さんにしてみたらたまったもんじゃない。そんなことなら機嫌よくお前に京都に寄り道させておいて、徐々に慣らし運転をするのが賢明だと、奥さんは判断したんだよ」

 「おいおい、そいつはビックリするような話だな。俺の夢の実現は、家内にとってはむしろ願ってもない申し出だったってこと?」

 「そういうことさ」

 「そこまでは俺の頭も廻らなかったなあ。だから最後はすんなりとオーケーしてくれたのか。それにしても、君はよくまあそんなことを思いつくなあ」

 「いや、俺だって通算10年近く単身赴任した上で退職し、家に帰っただろ。そしたら女房のやつ、ストレスで体調を崩してしまってさ。ヘルペスは出るわ、頭痛で寝込むわ、で大変だったんだよ。淡見の奥さんはそれを先読みして、淡見のアイデアにシメシメと思ったんじゃないか」

 「そうか、君にもそういうことがあったから、そう言うのか。俺のほうは京都寄り道プロジェクトなんて粋がってたんだが、まんまと女房に引込み線に誘導されちまったってわけか」

 「淡見、もうそこから本線には出てこれないんじゃないか。そのうち奥さんから『京都は別に2年限定でなくてもいいわよ』なんて言いだされかねないぞ」

 「おいおい、俺は留め置きかよ。人のことだと思って無茶苦茶言うんだな、君は」

 周囲の皆も大笑いした。

 「たしかに彼の言うとおりかもしれないな。淡見が留守の間に奥さんはきっと色々なお友達と共通の趣味を楽しんでおられたんだよ。そんなところへお前に帰ってこられてみろ。お前のためのおさんどんに追い回されるばかりで今までのようには気楽にお友達と行き来することも出来なくなる。『こりゃ大変だ』と感づかれたんだぜ」

 「淡見、だからだよ。最初は反対だったのに、後半は急にトーンダウンしてオーケーが出たのは。つまりお前を京都に留め置く効用に奥さんは、はたと気がつかれたのさ」

 「そんな・・・」

 柾樹は絶句した。

 と、別の仲間が次々と自分の生活実態を告白する。

 「いや、淡見の奥さんがそんな殊勝な気持ちでおられるんなら見上げたもんだよ。俺なんて単身から家に戻ってきても女房の奴ったらそれまでの快適な生活を変更するどころか俺が犠牲になって留守番ばかりさせられてる始末だよ。今じゃ犬の世話まで全部俺の担当だからね」

 他の友人も、

 「俺は退職して分かったんだけど、男は三度の食事なしには生きてけない動物だよな。ところが女性ってのは昼食のことはしょっちゅう忘れるんだよ。家に居ると昼になって腹が減ったとは段々言い出しにくくなってきてな」

 「それは全くそうだな。『えっ、もうお腹減ったの』なんて言われるとなあ」

 本音の話が尽きることなく盛り上がった。

 「淡見の話でつくづく思ったんだけど、いつの世も女性のほうが冷静でウワテだな。男はいつも自分の都合のよいようにばかり考えて、やれうまくいったの、気持ちは伝わったの、などと自己満足してるんだが、結局はかみさんの好きなようにやられてるんだもんな」

 「本当にそのとおりだな。けだし『亭主元気で留守がいい』とは至言だな」

 気の置けない仲間との楽しい宴席は尽きることなく続いた。

 柾樹も、ついつい飲みすぎた。が、友人達が驚き羨ましがった京都暮らしプロジェクトがいよいよ始まることへの高揚感と、実はそれさえもが「奥さんの計算づくで承認されたのさ」と指摘された衝撃とが胸中でないまぜとなり、柾樹は帰りのタクシーの中で酔いにまどろむ気持ちになど到底なれなかった。

 

( 次号に続く )