堀川今出川異聞(3)

いわき 雅哉

京都 葵祭の牛   撮影 三和正明

 

第一章 有為転変の幕開け 

(1)   雀躍の春

 ◇ 葵 祭

 

 柾樹が、住み慣れた大阪の単身者マンションから堀川今出川に引っ越したのは、5月の退職日当日のことだった。前日から引っ越しの手伝いにきていた妻の美佐子が、柾樹の最後の出勤を見送ったあと、引越し業者への荷物の引き渡しと施錠・鍵の返還等の手続きを済ませて堀川今出川のマンションに向かい、指定の時間に到着する大阪からの荷物を受け取る。やがて柾樹もそのマンションに帰着する - というのがその日の段取りだった。 

「じゃ、夕方には堀川今出川のマンションに着くと思うので、委細よろしく頼むな」

 柾樹は、美佐子にそう言って部屋を出た。毎日乗りなれてきた通勤電車も今日が最後か、と思うと、車窓を眺める気持ちもやや感傷的になり、永年通いなれた光景もどことなくいつもとは違って見える。「一日に意味を持たせる」ことでこうも感覚が変わるものか、と柾樹は思いながら、日々漫然と通勤電車に揺られていた来し方に軽い後悔を覚えた。

 職場に着くと、柾樹と苦労を共にしてきた何人もの仲間が、入れ替わり立ち代り部屋に顔を出し、思い出話を交わしながら、柾樹との別れを惜しんだ。柾樹は努めていつもどおりの応対を心がけたが、永年勤務した職場での仲間との別れはさすがに寂しく、彼らと一緒に全力で駆けぬけてきた日々をかけがえのないもののように思い起こして、胸を詰まらせた。

 最後の出勤体験を大切に心にしまった上で、柾樹は会社を出て、堀川今出川のマンションに向かった。大阪から京都に向かうということもあって、柾樹がマンションに辿り着いた時にはもう日も翳り、部屋の中では美佐子が手際よく荷物を整理・分類していた。

「思ったよりも広く感じるな」

「収納スペースが多いせいよね」

 二人はそんな会話を交わしながら、日常使いのものだけを大雑把に所定の場所へと片付けたあと、近所の小さな和食料理の店に夕食に出かけた。

「お疲れ様」

 二人はビールで乾杯した。柾樹は、長かった今日一日を振り返り、また、これから始まる京都での日々をあれこれ想像して、ついつい饒舌になった。美佐子は、そんな柾樹のはしゃいだ雰囲気に水を差すように言葉をはさんだ。

「ねえ、あなた。これから始まる京都ひとり暮らしの毎日は、会社勤務時代のこれまでの生活とは全く別のものになるのよ。本当に一人でやっていけるの」

 柾樹は、ほろ酔い機嫌で「心配ご無用だよ」と受け流し、「そんなことより」と言葉を継いだ。

「京都は年がら年中お祭や行事が目白押しだから、娘たちと一緒においでよ。このマンションはペットもOKだからチェリーも一緒に連れてきてやればいいんじゃないか」

 美佐子はそんな柾樹の顔を不安げに見つめながら、軽くため息をもらした。

 翌15日は、タイミングのいいことに京都三大祭の一つ「葵祭」が催行される日で、朝から雲ひとつない五月晴れだった。二人は、マンションの隣にある「もとはし」という名の軽食・喫茶で朝食をとってから葵祭に向かうことにした。気さくで陽気なお店のママとその妹は、店内に入ってキョロキョロしている二人を笑顔で迎え、モーニングリストの中から好みの組み合わせのものをどうぞ、と注文を促した。

 やがて柾樹の京都暮らしがこの店のおかげで救われていくことになろうなどとは誰一人知る由もない中で、柾樹は、ママに、昨日隣のマンションに越してきたこと、これから一人で京都寄り道生活をエンジョイすること、今日の葵祭はその初陣みたいなものであること、だから京都のことを色々と教えてもらいたいこと、などを話し、美佐子は美佐子で、葵祭を見たあと自分は東京に帰るが、柾樹の頼りなさや神経質なところが心配なのでこの先よろしくお願いします、といった話をしながら、モーニングセットを平らげた。

「どうもご馳走様でした。じゃ今から御所まで葵祭を見に行ってきます。京都見物の初陣成功を念じて」などと柾樹は言い、お店のママと妹は、「そらよろしおすねえ。せやけどえらい人やさかい、気いつけてくださいね。そうそう奥さんは、今日東京に帰りはるんでしたね。この先もご亭主の様子見がてらちょくちょく京都に顔を見せとくれやす。お待ちしてますよってに」と二人を見送った。 

 二人が目指した先は、葵祭の行列が繰り出してくる御所の宜秋門。すべてをこの目で見るのだ、遅れてはならじ、と急ぎ足を更に加速させる柾樹を、「見たいものがあるとこの人はいつもこうなんだから」とぼやきながら美佐子があとを追いかけた。

 御所に到着すると大勢の人たちが今や遅しと行列のスタートを待っていた。ちょうど宜秋門の真ん前に少し人ごみが途切れた場所があり、二人はそこで間もなく始まる行列の登場を見ることとした。いよいよ先陣を切る一団が宜秋門から通りに現れ、それに続いて次々と行列が繰り出してくる。やがて、斎王の名代として下賀茂・上賀茂両神社に参詣する斎王代の輿が、その先触れやお付き、衛視などに守られながら宜秋門をくぐり抜けてくる。昔ながらの衣装に身を固めた葵祭の主役・脇役たちが列をなして歩く光景を見ながら、二人は古都の歴史の重みに酔いしれた。

 が、初めて見る葵祭の行列の中で柾樹の心を強く動かしたのは、そうした衣装きらびやかな人間やお道具ではなく、宜秋門から首を上下に振り振りカツカツと蹄の音も軽やかに登場してきた何頭もの馬であり、また早くから門外で待機し長蛇の列のしんがりを務めて牛車を牽引した牛だった。

 馬の気負いこんだ眼、綺麗に刈り込まれ結い上げられたタテガミ、黒光りしたつややかな馬体、長い首や尾を前後左右に振りながら軽快に歩む颯爽たる勇姿、その後ろ足の独特の運び。この動物の持つ華麗さと雄渾さが、今、悠久の古都の歴史の現場に柾樹自身も居合わせていることを強く実感させてくれる。

 牛もまた柾樹の心を打ち震わせた。牛は、地面に平行するように首がついている独特の体型と、重い牛車を引かされての行進という役目柄、馬のようには颯爽といかない。その鼻輪から左右に伸びる美しい紐が両脇を歩む稚児たちの手に委ねられてゆっくりと行進していくのだが、牛はそれが窮屈でイラつくのだろう。時々ギョロリと周囲を睨みつけては強く体を震わせる。するとその動きが牛車に伝わって、ギーっという木の軋む音が発せられ、その瞬間に辺りは平安の都大路に生まれ変わるのだ。

 馬が進み、牛が歩むその横を、柾樹はビデオカメラを回しながら並んで歩く。と、昔から今に続く古都の情念が強く柾樹の胸に伝播してきて、ひとりでに涙が頬を伝い落ちる。

 「ずっと歴史を伝え続けてくれてありがとう。君たちがいるからこそ祭に重みと色取りが添えられているんだ。今日一日本当にご苦労様だが頑張っておくれ。まさに君たちあってこその葵祭の盛り上がりなんだからね」

 そう牛馬に伝えたい思いで柾樹の胸は一杯になった。

 そう言えば、古来延々と続いてきたこの葵祭の現場だけではない。保元・平治の乱の阿鼻叫喚の修羅場を駆けずり回っていたのも、応仁の乱で倒壊・炎上の巷と化した洛中・洛外を疾駆し荷駄を牽引していたのも彼ら牛馬だったのだと思うと、柾樹の陶酔感と牛馬への連帯感はとめどもなく高まっていった。

 そんな柾樹の様子を美佐子は横から見つめながら「こんなことでこんなに過剰反応をしているようでは、この先、何度も繰り返される古都の祭のあとの静寂にこの人は耐えていけないのではないかしら」と不安をよぎらせた。柾樹は、有頂天になって牛馬に思いを寄せつつ感極まっている自分の横で、一瞬にしてことの真実を見抜いてしまう女の勘の鋭さが作動していることなど夢にも思わず、葵祭に没我していくばかりだった。

「あなた、私もう東京に帰らないと」

 突然美佐子にそう言われて「お、もうそんな時間か」と我に返った柾樹は、人ごみの中を最寄りの地下鉄の駅まで美佐子と歩きながら、なお興奮冷めやらぬ面持ちでいた。

 改札に入るところで美佐子は言った。

「あなた、本当に一人で大丈夫なのね」

「大丈夫に決まってるじゃないか。だって単身赴任を何年やってきたと思ってるんだい」

「今までの単身生活とこれからの一人暮らしとは全く別のものよって昨日も言ったじゃない。あまり過剰に京都に期待しすぎたり張り切りすぎたり感情移入しすぎたりしないようにしてね。今までとは環境も大きく変わるんだから、体調にだけは十分に気をつけてね」

「心配ご無用。やっと自由の身になったんだ。これから開放感に浸りながら古都を満喫させてもらうんだから。美佐子も娘達と一緒に好きな時に京都においでよ。それまでには色々なところに行って、楽しく案内できるようにしておくからさ」

「わかったわ。じゃあ体に気をつけて頑張ってね」

美佐子はこうして京都から去り、柾樹一人が京都に残った。

「さあ、いよいよ京都暮らしのスタートだ」

 柾樹は、そう独り言をつぶやきながらも、僅か三日間しか居なかった妻が東京に帰ってしまっただけで、今まで意識もしなかった孤独感のようなものが心の中に広がってくるのを禁じえなかった。

― おかしいな、今までと同じように単身生活をスタートさせるだけのことなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう ― 京都一人暮らしが始まることへのワクワクした思いと、これまで何度も経験してきた単身生活の延長に過ぎないと思っていたにもかかわらずどこかこれまでとは違った寂しさが感じられる気持ちのズレに、柾樹は少なからず戸惑いを覚えていた。

( 次号に続く )