堀川今出川異聞(4)

いわき 雅哉

姿を現した今宮神社祭礼の大神輿 撮影 三和正明

 

第一章 有為転変の幕開け 

(1)   雀躍の春

 

 ◇ 今宮神社祭礼

 

 柾樹は葵祭の人出がまだ大勢残っている中をマンションまで歩いて戻った。慣れない手つきで部屋の鍵をあけて中に入ると、誰もいない部屋に未整理の引っ越し荷物が点在していて、さきほど美佐子と駅で別れた時の寂しさがふと甦ってきた。

 と、それまで何事もなく静かだった屋外が、やにわに騒がしくなりだした。

 何事かとベランダから顔を出すと、東に当たる左手の方から、なにやら旗指物を掲げた行列がこちらの方に向かってくる。柾樹は急いで部屋から飛び出し、マンションの前の道に出た。と、旗指物のあとから、何人もの艶やかな乙女達が、手にしたデンデン太鼓を打ち鳴らしながら、沿道で行列を眺めている子供たちの目の前にやってくる。その子たちの無病息災を祈る軽やかな歌を唱和しつつ楽しそうに舞い踊るのだ。更にそのあとからやってきた獅子舞たちが大口を開けて子供の頭を噛むような仕草をしては、その子の健康な成長を願って愛嬌をふりまく。続いて、柾樹の好きな牛車、きらびやかな前懸が美しい山車が、柾樹の見ている前をゆっくりと通り過ぎていく。つい先ほどまでは何事もなく静まり返っていた通り一帯が、賑やかで華やかな雰囲気に一変しているのだ。

 いったいこれは何なのだろう。いきなり目の前で繰り広げられる光景に戸惑いながら、柾樹は道の向かい側でにこやかにこの様子を見ておられるいかにも京風のおかみさんらしき女性に声をかけた。

「これは一体何なのでしょうか」

「ああ、今宮神社さんのお祭りです」

「今宮神社さん? そのお宮さんってどこにあるんですか」

「ここからは、ずいぶん北のほうになるんですけど、このあたりは、皆、その今宮神社さんの氏子になりますんですよ」

「ほう、そうなんですか。我々は今宮神社の氏子になるんですか。それにしても賑やかなお祭りですね。随分長い行列ですが、あとどれくらい続くんですか」

「へえ、今から大きなお神輿がお通りにならはります」

「え、今からお神輿がくるんですか」

 そんな会話をしていると程なく向こうの方から、白い短冊状の紙を手にもった人たちがこちらの方に駆け寄ってきた。

「いかがですか」と目の前に出されたその白い紙には、「今宮 神輿神幸 神供奉幣 諸人願成就祈所」と書かれてある。

「ははあ御札ですね。じゃ1枚お願いします」

 柾樹は寸志を渡してその御札を受け取りながら、「何と言うタイミングのよさだろう。このマンションに入居した翌日に、神様の方から氏子歓迎の祭礼で御札を交付していただけるなんて」と、氏神様との偶然とは思えぬ出会いに強く感銘し、深々とその御札に一礼した。

 と、向こうの方から警官たちに先導されながら大きなお神輿が台車に乗せられて牽引されてくる。金色に輝くお神輿の威容が近づいてくるにつれ柾樹は息を呑んだ。人の手によって担がれてはいないので、しずしずと進んでくるのだが、その巨大さと荘厳さは見る者を圧倒する。

「いかにも京都だなあ。午前中は葵祭、午後からは氏神様の今宮神社のご祭礼と、一日に2回も大きな祭りに出くわすなんて、正に我が京都逗留プロジェクト、万々歳じゃないか」

 つい先ほど葵祭から戻ってきて一人で部屋に入った時に感じた寂しさなど一瞬にして吹っ飛んでしまったように、柾樹は巨大なお神輿に目を瞠り、相好を崩した。

 そのお神輿がようやく通り過ぎ、人々も動きはじめたタイミングに乗じて、柾樹はお向かいの先ほどのおかみさんに再び声をかけた。

「いやあ、実に立派なお神輿でしたねえ。これでこのお祭はおしまいになるわけですね」

「いえ、もうじき次のお神輿が来はりますえ」

「エッ、次のお神輿?さらにまだお神輿が来るんですか」

 柾樹が驚きながら東の方へと目をやると、先ほどと同じような見事なお神輿が姿を現わし、その先触れとしてお札を配る人たちが小走りで沿道の人たちに声をかけながら、こちらに近づいてくる。

「御札をご用意しておりますが、いかかですか」

 柾樹は、少し得意然として、先ほどの白い短冊状の御札を示しながら、

「あ、御札は先ほど分けていただきましたので」と、いかにも物知り顔で返答した。

 と、「先ほどのは白い御札のお神輿のもので、今度のお神輿は黄色い御札です」

「え? 先ほどの御札とは、また別なんですか。」

「はい」

「ほう、そういうことですか。なら、その黄色いのを1枚下さい」

 そう言いながら、柾樹は再び寸志と引換えに、黄色い御札をいただき、先ほどの白い御札としげしげと見比べた。御札に書かれている文言は2枚とも全く同じで、違っているのは台紙の色だけである。

「それにしても一つのお宮さんに同じ日に色違いの御札が配られるというところがこれまた京都なんだろうな」と柾樹は思わず苦笑した。

 切りのいい落ちがついたところで、この祭も大団円なのだろうと、柾樹は想像し、自分の部屋に戻ろうとお向かいのおかみさんに軽く会釈をした。

 ところが何とおかみさんは人差し指を立てて「もう一つ来ます」と唇を動かしておられる。柾樹も思わず人差し指を立てて「もう一つ?」と聞きなおす。と、そこへ三つ目のお神輿の登場だ。今度は先触れが赤い御札を手に駆け寄ってくる。柾樹はもう躊躇なく寸志を差し出して赤い御札をいただき、「白・黄・赤の3枚の御札をゲットしました」と言わんばかりにおかみさんに指し示した。

 このままでは際限なくお神輿が繰り出してくるようでいささか心配になった柾樹は、またまたお向かいのおかみさんに声をかけた。

「まだまだお神輿は来るんですか」

 おかみさんは、「まあ、よう気楽に何でも聞いてくるお人やねえ」といった表情で、

「いいえ、今のでお神輿はおしまいです。このあと最後のお役目の方々が回ってこられて本当におしまいになりますえ」と答えてくれた。

 その最後のお役目の方々というのは、通りでお祭りを見ていた人々や御札を購入した人々にお礼を言いながら、まさに本日の打ち止めを触れて回る役割の人々らしい。お向かいのおかみさんは毎年丁重な対応をしてこられているようで、打ち止めを触れて廻る人たちも、

「あ、奥さん、いつもお世話になります。有難うございます」と挨拶をしながら、今しがた通りすぎていった赤い御札のお神輿のあとを追いかけるようにして、堀川通を横切り、姿を消していった。

「それにしても、午前中の葵祭といい、今の今宮神社の祭礼といい、京都の祭りの行列はほんとに長いなあ」

 この祭りの初めから終わりまでをつぶさに見てきた柾樹の疲労感もかなりのものだったが、何度も質問をしたおかみさんには「色々と有難うございました」ときちんと挨拶を済ませ、ようやくマンションの部屋に戻った。

 柾樹の手には、3度に亘ってゲットした3枚の御札がある。はてさてこれをどこに貼ろうか、とキョロキョロ部屋の中を探し回りながら、ようやくここはという場所を特定し、3枚の御札を等間隔に並べて丁寧に貼ってみた。すると、その御札がまるで生きているかのように白・黄・赤のコントラストも鮮やかに光彩を放ちはじめ、それまで無味乾燥で寂しささえ感じさせた部屋の雰囲気を一変させ、柾樹の気持ちも一気にポジティブへと変化したのだ。

 たまたまこの年は、葵祭と今宮神社の祭礼の日が重なったために一日に2つの祭礼に遭遇するという願ってもない体験を味わうことができたのだが、そんな偶然も、柾樹にとっては、京都に住む決心をしたこと、それもここ堀川今出川に拠点を定めたことの正当性が再確認されたものとして、言いようのない深い感動と満足に結びついていった。

「京都逗留二日目にしてこうなのだから、やっぱり氏神様のお力はすごい。そう思うと、これから始まる京都の日々には本当にワクワクしてしまうな」-- 柾樹の期待は、こんな幸先の良い京都暮らしのスタートを切れたことで、際限なく膨らんでいく。

 ただ、こうして氏神様の今宮神社と柾樹とのご縁は繋がったのだが、このあと、この氏神様ならではの思いも寄らぬテクニックを駆使されて、柾樹自身が今宮神社に何度も呼び寄せられることになろうとは、この時、夢にも思わなかったのである。

 

◇ 鴨川をどり

 

 京都では、例年春に京都五花街のうち祇園甲部、宮川町、上七軒、先斗町の4ケ所で、舞妓・芸妓が艶やかな舞を披露する「京のをどり」が繰り広げられる。

 柾樹が堀川今出川での生活をスタートさせた5月の中旬は、4つの内の最後の興行となる先斗町の「鴨川をどり」が開催されていて、たまたま柾樹の後輩が、「京都に住まわれるのなら」とその「鴨川をどり」の切符をプレゼントしてくれた。柾樹は、この後輩の粋な計らいに大いに感激し、会場の先斗町歌舞練場へいそいそと出かけていった。

 会場に入ると、まずお茶席に案内され、舞妓さんのお手前でお抹茶をいただく。到着順に次々と会場内に流し込まれるのだが、柾樹はたまたま並んだ順番がよかったようで、運よく舞妓がお茶をたてている最前列の席に通された。

 目の前でお手前を担当しているその舞妓の名前がめくりに掲げられていて、柾樹は「ははあ、この別嬪の舞妓さんはそういう源氏名なのか」と改めてその美しい容貌とお手前ぶりに見とれていた。

 柾樹が座った一列目の客人にだけは、もう一人の舞妓が一椀づつ目の前にお抹茶を運んできては一礼をして去っていく。二列目以降がおおぜいのお茶子さんの手で一斉にお茶碗が出されるのとは段違いの扱いに、柾樹の顔はついついほころぶ。その一列目に座れるかどうかは、その日のその時間に会場に入った時の来客数や行列の位置といった全く偶然の取り合わせによって決まるため、そこにも柾樹は京都逗留を祝福してくれる「神意」を感じ取って感動した。柾樹は、心地よい熱さが掌に伝わる抹茶茶碗を傾けながら、今、目の前でお手前をしてくれている美しい舞妓にも実は神が降臨しているのではないかとまで想像し、ドキドキする始末だった。

 出されたお抹茶をいただき終えると、お茶菓子受けとして出されたお皿を記念にもらって退席の運びとなる。柾樹は、お皿の裏に金文字で「鴨川をどり」と墨書されたこのお皿を何よりの京都逗留プロジェクト記念と思って大事にバッグにしまいこみ、お茶席を後にした。いよいよ今日のメインの「鴨川をどり」が演じられる舞台のあるフロアへの移動だ。

 どういうわけか柾樹は、若い頃から邦楽の音色・音調・間合いが好きで、いざ笛が吹かれ、鼓が打たれ、太鼓が間合いをとり、三味線が引かれだすと、柾樹の心が感応し始める。そこに長唄や清元などが乗っかってくると、もう居ても立ってもいられなくなるのだ。邦楽独特の間合いと音の調和が柾樹の中のDNAを揺さぶるらしい。

 ましてや今日は、踊り、唄、演奏にも綺麗どころがずらりと並び、一服の絵巻物が眼前に繰り広げられる。それだけに後輩が用意してくれた席が花道横の一等席であることを知った柾樹は、その心配りに胸を詰まらせた。柾樹はその一等席で我を忘れて舞台に見入り、音曲に耳を傾け、会場で購入したパンフレットでこれはと目を引く芸妓の名前と顔を確認しながら、至悦のひと時に酔いしれた。

 座が跳ねて外に出ると、少し日が傾き始めていた。柾樹は先斗町通を四条まで歩き、少し足を延ばして祇園界隈もそぞろ歩きしながら、「京都に住むと決めて本当によかった」と心の底から感じ入っていた。

 この日の柾樹には、目の前の鴨川の流れも、先斗町・祇園・四条の人ごみも、京都市バスが次から次へと停留所にやってくる様子やその行き先表示の京都の地名のひとつひとつまでもが、ことごとく京都逗留を決めた自分を祝福してくれる吉兆として映じていた。

 春爛漫の古都の風情に欣喜雀躍としている今の自分の楽しく嬉しい思いが、京都逗留生活を続けている限り、変化することも、後退することも、落ち込むことも、打ち沈むことも一切あろうはずがない ――そんな独りよがりの確信を胸に、柾樹は夕暮れの古都に吹く川風に身も心も任せながら、先ほどの「鴨川をどり」の余韻を楽しんでいた。

( 次号に続く )