堀川今出川異聞(26)

いわき 雅哉

 

喫茶店前を流れる東堀川のせせらぎ  撮影 三和正明

喫茶店前を流れる東堀川のせせらぎ  撮影 三和正明

第四章 洛西慕情
◇ 再びの喫茶店(2)

 恥ずかしそうな表情をしていても、一旦心を決すると、女性は男性よりもしっかりするものだ。店の奥からの「どうぞ、中へお入りやす」というママの声に、萌は、にこやかに会釈しながら躊躇なく店内に足を踏み入れ、柾樹は、もともと自分の馴染みの店のはずなのに、ややオズオズしながら萌のうしろから中に入った。運よく店内には先客はおらず、ママに勧められるままに、二人はカウンター席の真ん中あたりの椅子に腰を下ろした。

「淡見さん、今日、お連れはんと来はるやなんて、事前に言うといてくれはったら、うちらもっとええべべ着て、お化粧も念入りにしときましたのに、ほんま」とママが言う。

「そんな。今日、会った時に話が弾んだ勢いで、そのままこちらにご案内してきたものですから、事前に連絡するなんて無理だったんですよ」と柾樹。

「へえー、『話が弾んだ勢いで』ねえ。ま、そら、どっちゃでもよろしい。ほんで、こちらさん、どういうお方? 紹介してくれはらへんかったら、うちらもきちんとご挨拶でけしまへんがな」

「それはそうでしたね。こちら萌さんとおっしゃって、ちょっと前にもお話しましたように、京都で知り合いになって、色々なところに連れていって下さっているお方です」

「ああ、前々から綺麗な人と友達になってん、て言うたはったお方? モエさんて言わはるんですか」

「はい、萌と申します。お初にお目にかかりますが、よろしくお見知りおきくださいませ」

「いやいやこっちこそ、よろしゅうお願いします。あのね、モエさん、この淡見さん言うたらね、口を開いたら、いっぺん会うて見てくれ、の、そら綺麗な方やの、と、店に来るたびに、お宅さんのことしか口にしはらしまへんでしたんやで」

「まあ」と萌は頬を赤らめる。

 ママの妹も、
「そやけど淡見さんて、ご本人を前にして言うのもなんやけど、こちら、ほんま別嬪さんやねえ。淡見さんがいっつもそない言うたはっただけのことはある。これはほんまもんやわ」と口を挟む。

「ちょっと勘弁して下さいよ、初めての人にそんな品のないことを寄ってたかって言うのは」

「あら、淡見さん、ようまあ自分だけそんなエエカッコできますなあ。毎回そんな話ばっかり聞かされてきたうちらの身にもなってほしいわ。ただ、今日、ほんまにお目にかかるまでは、さびしがり屋の淡見さんが偶々優しそうな人に会いはったんで、感激の余り誇張して言うたはんねやろ位に思てましてんけど、そうやなかったわ。ほんま綺麗。うちらも認める」

 柾樹は、萌が褒められることが無性に嬉しくて、目じりを下げながら、得意げに答える。
「誰でもそう思うでしょ。事実だからありのままにそう言っただけで、なんにも誇張してお話してきたわけじゃないんですよ」

「それは認めましょう」

「別にママに認めてもらわなくても、事実がそうなんだから仕方ないでしょ」

「あいわかったぞ、淡見どの。ほんで何にしましょ、萌さんのお好きなご注文をどうぞ」

「おっと、そうでしたね。萌さん、ここのコーヒーはなかなか美味しいですよ。でも結構歩いてきたので、お腹がすいてはいませんか。よかったら、ここのママの妹さんの手料理風のオムライスでもいかがですか。これもなかなかのもんですよ」― 柾樹は、まるで自分が経営している喫茶店であるかのように、当店の人気メニューを紹介する。

 ママとその妹が萌の顔を覗き込む。萌は、はにかみながら「有難うございます。では、コーヒーと少し甘いものでも、いただけますでしょうか」と答える。

「そら萌さんのご所望とあらば、私ら今からどこへなと出かけて行って手に入れてきますけど、早い話、ショートケーキではあきまへんか」

「あ、ちょうどそういったものが欲しかったものですから、とても有難いです」

「わっかりました、ショートケーキ & コッフィーで参りましょう。ほんで淡見さんはどうされます、僕もいっしょのを、という顔したはるけど」

「今日のママはちょっと可笑しいよ。なんでそんなにハイなの」

「いいや、別にハイでもローでもあらしまへんえ。自分よりも別嬪さんに会うたら、大体いつもこんな感じですわ。まあ折角お二人で来てもろたんやから、お二人お揃いのを用意させてもらいますえ」ママはそう言いながら、妹と分担して注文のケーキセットの準備にとりかかった。

 柾樹は、萌に気を使いながら「萌さん、びっくりされたでしょ、この騒々しさには」と声をかける。萌は、
「いいえ、私の生まれ育った堺の実家もお商売をしておりますので、その店頭の賑やかなことといったらありませんでした。むしろ懐かしい思いでやりとりを楽しませていただいておりますのよ」

 そんな二人の会話にいきなりママが口を挟む。
「偉い、それでこそ萌さんや。こんなんでびっくりしてるようでは、商売なんかでけしまへんもんねえ」

「はい、萌もその通りだと思います」
そばでハラハラしている柾樹とは裏腹に、萌は、こうした雰囲気にむしろ寛ぎを感じているようだった。ママは、その様子を確認しながら、すかさず萌に直接質問を始めた。

「ほんで、萌さん、今日はどこでデートしはったん?」

「前々から鍛心庵様が行ってみたいとおっしゃっておられた場所がここから西のほうにあるものですから、今日はそこでお目にかかりましたの」

「タンシンアン様? それ誰ですの。ひょっとして淡見さんのこと」

「ええ、私どもはいつもそうお呼びしておりますの」 

「私ども? 萌さん以外にもどなたかご一緒でしたの」

「いいえ、私たちだけでしたが」

「せやかて、今、『私どもはいつもそう呼ぶ』て言わはりましたえ」

「私と同じような思いを持っている者たちがいるものですから、私ども、と申しました」

「なんや、ようわからん話やねえ。ま、よろしい。聞きたかったのはタンシンアン様ちゅう呼び名でしたわな。ねえ、ちょっと淡見さん、そこで知らん顔してボサっとしてんと、いつも萌さんからタンシンアンさんてな名前で呼ばれたはりますんか」

「ああ、ちょっと面白おかしく自分でそういう名前をつけてみたんですよ。そうしたら萌さんにお目にかかった最初の時点で、萌さんが僕のことをいきなりそう呼んだものですから、まあ、そのままで今に至ってるってところなんですけどね」

「萌さんに会うたらいきなり『タンシンアン様』て呼ばれはったんですか。そんな妙な名前を誰にも言わんと自分でつけといて、見ず知らずやった萌さんに会うなりそうよばれたやなんて、不思議な話やねえ。ま、そこはええわ。それより淡見さん、そもそもタンシンアンって、なんでまたそんなけったいな名前を自分でつけはりましたんや」

 返答に窮している柾樹の表情を見て、萌がママの質問を引き取った。
「鍛心庵さまは、とても真面目なお方で、京都に来られてから、ご自分をもっと鍛えていかねばと感じられ、思い切ってご自分に別の名前をつけてみることで、ご自身の意識を変えて行こうとされたみたいですよ。だから心を鍛えると言う意味でタンシンと命名されたとお伺いしましたが・・・」

「へえ、そうでしたんか。それにしても難しいこと考えはるんやねえ、淡見さんは。そんなに心を鍛えはらんでも弱いなら弱いでよろしやないの。うちらありのままの自分でしかよう生きんわ」

 引き続き萌が話を受けとめて返事をする。
「そういうお考えもまた尊いことですね。ただ、鍛心庵様は、昔の人々の生き方を学ばれていくうちに、昔の人々が秘めていた人間としての強さが、ご自分を含めて今の人々にはないことに強い関心を抱かれ、昔の人々が自分を変えて行く時に活用された『名前を変える』と言う手法を思いつかれたようですね」

「ほほう、そうですか、まあ言うてみたら、昔の元服みたいなこと?」

「その通りですね。子供から大人の仲間入りをする時に、いくら心構えを聞かされても人はすぐに忘れてしまいます。そうさせない方法として、烏帽子をかぶらせ、髪形や衣装も変え、名前まで新しくすることで、日々の立ち居振る舞いや一挙手一投足に至るまで自分は大人になったのだという自覚を植え付ける。そんな昔の日本人の知恵を鍛心庵様は継承されようとなさったのだと思います」

「そうでんの、淡見さん。うちらには何にも言わんと、そんなえらいことやったはったんですか」

 ようやく柾樹が答える。
「いやいやそんな大げさなことはありませんよ。ただ、そうでもしないとたった一人で京都に住む寂しさに耐えられなかったものですから、そんなアイデアを思いついただけなんです。でも、このアイデアを思いついた結果、萌さんとも知り合うことができましたし、こうして今二人でこのお店にもお伺いしている。本当に良かったと思います」

「まあ、おおきにご馳走様。さあさあ言うてるうちにコーヒーも湧きましたし、当店自慢のショートケーキもこれこのとおり。さあ、どうぞごゆっくりとご賞味遊ばせ」

 二人は熱いコーヒーを飲み、笑みを交わしながらショートケーキを味わった。歩き疲れた体にその味覚は心地良かった。

 が、そんな二人の様子をカウンターの中からじっと見つめていたママが、それまでのハイで陽気な雰囲気から一転、やや凄みを聞かせた口調で言い放った言葉に、柾樹の全身は凍りついた。

( 次号に続く )