堀川今出川異聞(29)

いわき 雅哉

 

柾樹が大切にしている女性の能面に萌が宿ったのか  撮影 三和正明

柾樹が大切にしている女性の能面に萌が宿ったのか  撮影 三和正明


 

第四章 洛西慕情
◇ 再びの喫茶店(5)

 萌の大きな瞳からあふれ出した涙に、柾樹も喫茶店の姉妹もが驚き、萌の顔を一斉に覗きこんだ。慌てて涙をぬぐう萌に、ママが言った。

「そうか、萌さん、分かりましたわ、お宅が急に泣きはった訳が。お宅、あっちの世の人やのに、こっちの世の淡見さんに惚れはったんでしょ。違います?」

 ママのその発言に、萌は微笑みを取り戻して優しく言った。
「その通りです。でも、それが私のいう大きな過ちだというわけではないんですよ。彼岸・此岸を越えて好意を抱くことはごく自然なことであり、むしろそういう思いなしには彼岸からの強い意志をもって鍛心庵様に近付くことは出来ません。そうした心の交流が禁じられているというわけではありません」

「ほな、萌さんがおかしはったとかいう大きな過ちて、何ですのや」

「・・・・・・・」

「そんな黙ってはったら、うちら萌さんの味方したげよ、て思うてたかて、でけしませんやないの。萌さん、そんな自分一人で苦しまんと、言うてみはったら、どないです。うちら、みーんな萌さんが好きになったんやさかい」

 萌は、なお押し黙っていたが、やがて自ら握りしめていた柾樹の手をそっと離して、柾樹の方に押し戻し、重い口を開いた。

「彼岸の世界の者が此岸の世界の方に行使してはならないと定められている約束事を私は踏み外しました」

「な、なんですのん、それは」

「此岸の方のお気持ちを恣意的に動かしたことです」

「萌さんが淡見さんを好きになってもええのに、淡見さんが萌さんを好きになるように仕向けたらあかんちゅうことですか」

「いいえ、萌のことを好きになってもらえるように、萌自身が努力するのは当然のことですから、そうした自然な思いが溢れての行いは、彼岸での掟に違背することにはなりません」

「ほら、また、話がややこしなってきましたで。なんや、よう分からんけど、要は、何をしでかしはったんですか、萌さんは」

「・・・・・・・」

「萌さん、言いとない気持は分かります。せやかて教えてくれはらんと、うちらお手伝いでけしまへんやないの」

「・・・・・・」

「これ、淡見さん、何をボケーっとしてはりますんや。お宅の大好きな萌さんが頭抱えたはりますねんで。何とか言いはったらどないですのん」

「僕は、萌さんのことが大好きですが、萌さんがそこまで僕に好意を持って下さっていたことを知って、もう何も言えなくなっているんです」

「何が、もう何も言えなくなってるんです、や。ここでお宅がきちんと萌さんを助けてあげんで、どないしますんや。ほんまじれったいお人やなあ、淡見さんちゅうお人は」

「皆さんの暖かいお気持ち、萌は本当に嬉しゅうございます。ただ、萌は、萌は・・・」

「言うておしまい、萌さん」

「萌は、鍛心庵様の心の中から、此岸世界の現実要素を一切取り払い、鍛心庵様と萌という二人だけの世界にしか鍛心庵様の思いが及ばないようにするという禁じ手を使ってしまったのです」

「いや、ちょっと萌さん、そんな手、使えるんやったら教えてほしいわ、うち」と妹が身を乗り出していうのを、姉が厳しい目つきで制して、萌に話す。
「萌さん、具体的にどういう術を使いはりましたんや」

「鍛心庵様のご家族のことやご友人との日ごろの素晴らしい人間関係を鍛心庵様の心の中から一切消し去って、鍛心庵様が一途に萌のことだけを思って下さるように仕向けました」

 そう言い終えると、萌はカウンター席の椅子から立ち上がり、柾樹に深々と頭を下げた。
「鍛心庵様、本当に長い間、楽しい時間を有難うございました。そして、私どもが強く感じとっていた鍛心庵様の先人を思う深いお心、豊かな感受性、思い半ばにして挫折した多くの先人たちの無念な気持を思いやって下さるお優しいお気持ちに直接接することの出来た萌は本当に幸せ者でございました。

 そんな純粋な思いと関係がただただいつまでも続くように、と思うあまり、萌は、鍛心庵様のお心が現実的な他の領域に移ってしまったり、他に関心を広げられたりしないよう、自分勝手な枠組みを作って、その中に鍛心庵様のお心を閉じ込めてしまいました。

 これは決して許されない所業であり、それでも、それを承知の上で、萌は鍛心庵様との濃密な心の交流を求める余り、この禁をおかしました。それが許されないことである以上、今、申し上げられることはただ一つ。どうかこの国の歴史と先人を思う鍛心庵様の熱いお気持ちを、いついつまでも変わることなく持ち続けて下さいますように・・・」

「萌さん、そんな、まるでこれで今生の別れみたいな言い方をしないで下さいよ。萌さんとはこれからも益々多くのことを語り合い、色々なところに一緒に出かけ、新しい発見や感動を共にしていくんだ、と僕はとっくに決めているんですから」

「鍛心庵様、そうおっしゃっていただけて、萌は本当に嬉しゅうございます。でも、掟に違背したら姿を消すと言うのは、避けることのできない定めなのです。萌も立ち去りがたいのですが、こればかりはどうすることも出来ません。鍛心庵様、本当にごめんなさい。
 そして喫茶店のお二人様、今日は本当に素敵なお時間をいただけましたこと、心よりお礼申し上げます。そしてどうか鍛心庵様をこれからもよろしくお願いいたします」

 萌がそう言い終えるや否や、やにわに店内の照明が暗転し、能舞台でよく吹きならされる甲高い笛の音が、その場の終焉を告げるかのようにピーっと鳴り響いた。その暗闇の中から、気品と哀惜に満ち満ちた美しい女性の能面が浮かび上がったかと思うと、お店の入口のドアが開く音がして、一陣の風が店内に流れ込んだ。

 やがて、店内の照明がぼんやりと光を取り戻し、茫然とした表情の3人が、ポツンとその場に取り残されていた。今、この瞬間に起きたことが、果たして実際のこの世での出来事だったのか、それとも夢幻であったのかも理解できないままに、3人はしばしあんぐりと口を開いて、戸口のほうをぼんやりと見つめていた。

( 次号に続く )