堀川今出川異聞(32)

いわき 雅哉

 

萌が柾樹に往訪を約束したと言う某所の紅葉 撮影 三和正明

萌が柾樹に往訪を約束したと言う某所の紅葉 撮影 三和正明


 

第五章 東国の系譜
◇ 千本釈迦堂の謎(3)

 喫茶店の中に入った柾樹は、大きく深呼吸をしてから、楓の座っている席に近付き、やや声を上ずらせながら第一声を発した。

「私、淡見柾樹と言いますが、私に会いたいと言ってこちらにこられた楓さんとおっしゃるお方は貴女でしょうか」

 突然あたふたと店の中に入ってきて、いきなりこう声をかけられた楓は、驚いた表情で椅子から立ち上がって言った。
「はい、貴美野 楓と申します。事前に何のご連絡もなしに突然こちらにお邪魔して、いきなりお電話をかけていただいたものですから、さぞ驚かれたことと存じます。誠に申し訳ございませんでした」

 そう言いながら頭を下げた楓を見つめながら、柾樹は、その麗しく上品な容貌と身のこなしに目を見張った。品の良さと美しさで落ち着きのある雰囲気が色濃く醸し出されてはいるが、それでいてどこかに若々しくて快活な雰囲気が漂よっていて、柾樹の気持は楓にぐいぐいと引き寄せられていく。が、そんな思いを気取られないように、柾樹はわざと事務的に言葉を発した。

「であれば、早速、私に会いに来られたご趣旨をお伺いしましょうか」

 共に立った姿勢のままで会話をしている二人に、すぐさまママが口を挟んだ。
「まあまあ、お二人とも、そんなとこに突っ立ったまま話なんかしてんと、椅子にでも座りはったらどうですか。淡見さんかてそんな神妙な顔してんと、コーヒーでも飲みながら、落ち着いてお話聞きはったらどないどす」

「ああ、そうだね、じゃあコーヒーを」
そうママに答えはしたが、柾樹の目は楓を凝視したままだ。一方で楓は、ママの言葉に反応して、自分の横の席を指さしながら「淡見様、どうぞこちらにお掛け下さいまし」と、着席を促す。

 柾樹はそこで初めて我に帰ったような顔つきに戻り、「そうですね、楓さんこそどうぞ。僕も余りの突然のことで事態が今一つ掌握できず、楓さんを立たせたままで質問したりして大変失礼いたしました」と言いながら、ようやく平常心を取り戻し、楓の勧める席に腰をおろした。

 ママが言う。
「淡見さんて。こちらさん、今朝大阪からこっちに来はったんやそうですよ」

「大阪から、ですか。楓さんは、もともと大阪のご出身なんですか」
大阪と聞いて急に柾樹の表情が和やかになった。

「はい、阿倍野生まれの阿倍野育ちです」

「阿倍野かあ、懐かしいなあ」

「あら、淡見さんはどうして阿倍野がお懐かしいんですか」

「僕が生まれ育ったところも阿倍野に近いところで、高校は阿倍野区にあったんですよ」

「ひょっとして三明町の?」

「そうです」

「だったら私、淡見さんの後輩になります」

「おや、それは奇遇ですね」

「というか、だから萌さんは、私を淡見さんへの連絡役に選ばれたんだと思います」

 柾樹にコーヒーを立てていたママがここでまた割り込んでくる。
「淡見さん、お二人の高校の場所がサンメイチョウかヨンメイチョウか知りませんけど、出ましたがな、出ましたがな、遂に萌さんのお名前が楓さんの口から。楓さん、この淡見さん言うたらね、もう寝ても覚めても萌さんのことしか頭にありませんでしてん。その萌さんがいきなり淡見さんの前から消えてしまいはってからは見るも痛ましいほどに落ち込みはって」

「ママ、何を言い出すの。楓さん、この人、ちょっと大袈裟にものを言う人ですから、気にしないで下さいね」

 二人の会話を楓は楽しそうに聞きながら、「羨ましいです、萌さんが。こんなに素敵な男性からそこまで慕われていらっしゃった、だなんて」と場を取り持つ。

 と、ママの妹がすかさずチャチャを入れる。「楓さんて、一体どこにそんな素敵な男性とやらがいたはりますのん。今すぐにでもうちに紹介してほしいわ」。

 それを聞いた柾樹も、自分で自分を指さして「ここここ、ここにいますでしょ」と小さく声を上げる。これで、やや固かった場の雰囲気が一気に和やかになった。

 目の前で屈託なく笑う楓の表情が余りにも可愛く、かつその雰囲気のどこかに萌によく似た要素が充満しているように感じられて、ここしばらく塞ぎこんでいた柾樹の気持は嘘のように陽転していく。さすがに萌だ。何と言う素晴らしい使者を立ててくれたのだろう。有難う、萌さん。柾樹は心の中で萌に手を合わせながら、目の前の楓との会話に没頭したい誘惑に駆られていた。

「楓さん、でしたね。少し萌さんとのご関係と萌さんからの言伝てについてお聞かせ下さいませんか」

「あら、そうでしたですね。あまりにも可笑しくて今日はなんでここに来たのかさえ忘れてしまうほどでした。ごめんなさい」 楓はそう言うと、そもそもの萌との関係を話し始めた。

「私は、書家の父と茶道師範の母との間に生まれたこともあって、幼いころから日本的なものの考え方や文物、風土、景色、工芸といった古典の鑑賞がとても好きという、一風変わった子供として育ちました。特に古いものへの感受性が中高へと進学するにつれて鋭敏になり、そういうものに囲まれた生き方に強く憧れるようになり、その結果、大学もそうした分野を専攻し、卒業と共に、美術館の学芸員になる道を選んだのです」

 柾樹は、一人で回顧談を語るように穏やかに話し始めた楓の可愛く動く唇、聡明で澄んだ瞳の輝き、落ち着いた手の動きなどを、一瞬たりとも見逃すまいと凝視しながら、じっと耳を傾ける。その美しい語り口はまるで天女のそれかと思えるほどに心の中に沁み込んでくる。

「そうして懸命に学芸員としての研鑚を積んでいたある日、仕事を終えて家路に着いたところ、後ろから鈴のように澄んだきれいな声で私の名前を呼ぶ声が聞こえました。振り返るとこの世のものとは思えないほどに美しく知的な女性が立っていて、私にこう言ったのです。
『貴女が今、懸命に学ぼうとしておられる世界は、今日の日本人がその意味と存在価値をすっかり忘れ去ってしまって久しいこの国の積年の何物にも代えがたい貴重な宝物です。その宝物の知識と体系を完璧に自分のものとして理解・修得されることは本当に大切なことですが、そうした宝物がまるで所与のものとしてこの国に存在していたのではなく、そういうものを生み出すべく懸命に研鑚し、学びとり、伝統化し、大きな文化の流れを作り上げてきたこの国の先人たちの知恵と努力をお忘れになっては、学ぶ意味さえ見失ってしまうことにもなりかねません。
 どうか、単に知識として知っているとか、学びによって理解しているという水準にとどまることなく、それらを越えてこの国の民に神から付与された研ぎ澄まされた感性の働きにこそ、ご自分の五感を即応させ、かつ、これらの宝物が今もなお脈々とこの国に息づいている命の系譜であるとの認識に立って学びとっていく姿勢を確立されるようご精進下さい。それだけを貴女にお伝えしたくてお声をお掛けしました』と。

 私は、その涼やかで澄んだ声と優しく微笑みながらお話になるその女性に只ならぬものを感じましたので、私はその女性にこう話しかけました。
『願わくばお名前をお聞かせ下さった上で、ここから先、この私を厳しくご指導いただけませんでしょうか』と。

 その女性は、しばらく何も答えずに静かに目を閉じておられましたが、やがて何かを決心したかのように口を開かれました。
『分かりました。そうまでおっしゃるのなら身分を明かし、かつ楓さん、あなたのご研鑚のお力となりましょう』と言われ、『私は室町時代の堺からやってきた萌と申します。当然、今は、この世には生きてはおりませんが、魂は時間軸を越えて自由に往還できますので、私が生きていた時代の人々の思いを現世の人々につないでいく役割を果たすよう、あるお方から命じられ、こうして今、貴女の前に現れたのです。この先、貴女が私に会いたいと思われるのなら、そのように心に念じてさえ下されば、私は立ちどころに貴女の目の前に現れましょう。その代わり決してご自分のご研鑚について怠け心を持たれませんよう、それだけは約束して下さいますね』と言われると、すっと姿を消されたのです」

 楓が話すのをじっと聞いていた柾樹はあやうく涙をこぼしそうになった。この国を愛する先人たちは、そこまでしてこの国の感性の系譜を絶やさないようにしてきておられたのか、只々好きで好きでたまらなかった萌が背負っていた役割の重さがそんなにも凄いものだったのか、と思うと、柾樹は自分の思慮の浅さと萌が背負わされていた使命に対する認識の甘さを心から恥じ入った。

 楓は続けて話す。「その日以降始まった萌さんとの数々の思い出や体験については、余りにもその量が膨大過ぎて、到底今日はお話できませんが、今回、萌さんが私に命じられたご用向きは、まだ果たせていない淡見さんとの約束を私が萌さんに代わって履行してくるように、とのことでございました」

「まだ果たせていない私との約束を果たしてくるように、と萌さんは言われたんですか」

「はい」

「はて、なんだろう。僕は毎回萌さんと会うだけで嬉しかったもんだから、約束と言われると一体なんだったんだろうと思ってしまいます」

 それを聞いた楓は、バッグの中から1枚の写真を取り出して柾樹に見せた。そこには今、柾樹の目の前で話をしている楓の名前にふさわしい見事な紅葉の光景が写し出されていた。

「これはたしか」

「はい、こちらに鍛心庵様を改めてお連れするという約束を果たせなかった、ということを萌さんは最後まで気にしておられ、私にその約束を果たしてくるように、と言われたのです」

「そんなことまで萌さんは気にしておられたんですか」

 柾樹はその萌の一途さに心を掻き毟られた。そう言えば、この場所にはまだ実現していないある約束が残っていたからだ。ただただ萌に会えさえすればそれ以上には何も求めなかった柾樹のいい加減さに引き比べ、すべての思いや約束に本当に真摯に向き合ってくれていた萌の心根の美しさに、柾樹の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。

( 次号に続く )