堀川今出川異聞(33)

いわき 雅哉

美しい紅葉に映える国宝千本釈迦堂本堂の雄姿  撮影 三和正明

美しい紅葉に映える国宝千本釈迦堂本堂の雄姿  撮影 三和正明

第五章 東国の系譜
◇ 千本釈迦堂の謎(4)

 楓の説明によれば、萌が楓に託したのは、以前、山名宗全ゆかりの寺として萌が柾樹を案内した千本釈迦堂の創建時の由来や秘話を柾樹に聞かせたい、との萌の想いを実現してほしいというものだった。

 楓にそう言われてみて、柾樹は、あの日、萌を喫茶店に連れて行くために、早めに千本釈迦堂を後にしたこと、その時に、今度千本釈迦堂に来る時には、萌の肝いりでわざわざこの寺院の創建時の大工の棟梁の内儀の「おかめさん」と呼ばれていた小粋な女性に、その当時の興味深い話を聞かせてもらうこととなっていたこと、を思い出した。

 もともと千本釈迦堂を柾樹が最初に訪れたのは、山名宗全に会って親しく話をしたのを機に山名の生涯に関心を抱き、山名の生き方に繋がるような場所があれば連れて行ってほしいと萌に頼んだ結果、千本釈迦堂の境内にある山名家ゆかりの不動堂に案内してもらったことに始まるが、肝心の千本釈迦堂そのものの歴史や由来などを聞く前に、萌との別離が先行してしまった結果、いわば宿題となってしまった部分を、萌は楓に託したのだった。その時は、まさかその直後に萌との突然の別離がこようなどとは夢にも思わなかった柾樹だったが、今、楓を目の前にして、余りにも突然に訪れた萌との破局に胸がつまった。

 そんな余韻に浸りたい心境にある柾樹の心のうちを知ってか知らずか、楓はストレートに目的に即した話題をぶつけてくる。
「で、実際に千本釈迦堂にご案内させていただく日ですが、来週の水曜か木曜あたりでいかがでしょうか」

 たしかに萌も、言葉は優しいものの詰めるべきものはきちんと詰めるというはっきりとした性格の持ち主ではあったが、それでも相手の気持ちをしっとりと慮る年齢相応のゆとりがあったのに対し、やはり楓は今風であり若さゆえのストレートなところがあった。が、そうだからと言って決してツッケンドンな感じはしない。「これはこれで悪くない」・・・柾樹はそう思いながら、日程を確認するために手帳をくった。

「来週の水曜日か木曜日なら、僕はどちらでも構いませんが」

「わかりました。なら『善は急げ』で、水曜日にしましょう。水曜日午前10時、千本釈迦堂の本堂の前でお目にかかると言うのでいかがでしょうか」
 楓のその答えで二人の逢う日時は固まった。

 寺歴によれば、そもそも千本釈迦堂は、その正式な寺名を「瑞應山 千本釈迦堂 大報恩寺」といい、創建は鎌倉時代初期の安貞元年(1227)、開祖は奥州藤原秀衡の孫である義空上人とされ、今なお荘厳な雰囲気を湛えるその本堂は、創建以来の遺構をそのまま今日にとどめていて国宝に指定されている名刹である。

 柾樹は、その国宝の本堂の前で、初めて楓と二人きりで逢うのだ。萌に引けをとらない美貌の持ち主で、しかも現世の人。あろうことか柾樹の高校の後輩で、生まれ育った場所も極めて近いとなれば、どうしても萌とは別次元の親しさを覚えてしまう存在だ。「よし、楓さんとは大阪弁で通そう。かっこつける必要もなく、大阪弁で気楽に会話をエンジョイし、同郷のよしみで楽しい時間を共有しよう」―― 柾樹はそう心に決めた。

 当日、柾樹は、殊のほか早くマンションを出た。学芸員として日々美術品への感性を磨いている楓を前にして、柾樹がうわべの知識をひけらかそうものなら、最初の出会いで相手にされなくなるだろう。それだけに境内に漂う霊気のようなものを事前に嗅ぎ取り、そこからこのお寺の創建の想いや由来の背景、開祖の人となりといったものを、率直に楓に話してみようと考えた。

 既にこの場所には萌と一緒に行ったことがあり、楓との待ち合わせ場所である本堂の前までは容易にたどりつくことができた。鎌倉時代の創建にふさわしく、質実剛健の趣を湛える国宝の本堂に、左右から上品に迫り来るモミジの紅葉がいかにも奥ゆかしくて美しい。と、突然、柾樹の胸中に一つの疑問が浮かび上がってきた。さきほども触れた寺歴によれば、開祖の義空上人は奥州の藤原秀衡の孫で、比叡山での厳しい修行を経たのち、千本通りのこの地に、釈迦如来をお祭りする「千本釈迦堂」を建立した、とあるが、一体どんな背景があって、鎌倉幕府に滅亡させられた奥州藤原氏の血脈を引く者が、北野天満宮の東よりの場所にかくも荘厳な寺域を確保することができたのだろうか、という疑問だ。

 それについての想いを深めた上でこの古刹を拝観しないと、またぞろ萌が登場してきて、いつぞやのように浅い認識で寺の説明板を鸚鵡返しに解釈しているだけの柾樹の鑑賞姿勢は厳しく責められるであろう。ひょっとして楓も萌同様に、そうした浅薄な理解や上辺だけの解釈をするような柾樹に対しては容赦なく責め立てて来るかもしれない。そう思うと、さきほどから大阪弁でイテコマスカなどとイイ気になっている柾樹のオッチョコチョイな性癖そのものが、楓の軽蔑の対象となるかも知れない。

 柾樹は、なんだか急にマンションに帰りたくなってきた。もっとウキウキワクワクとした思いで、好意を抱いた楓との古都の逢瀬を楽しみたいのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。僕は、別に、そんな高い使命感をもって、京都の旧跡を巡りたいわけではないんだ。美人の後輩である楓と肩を寄せ合いながら、「綺麗やねえ、こんな景色、好っきゃわあ」でうっとりしてさえいられれば、それでいいのであって、それ以上のしんどい思いを自らに課すのはもうご免こうむりたい。逃げるのなら今しかない。今すぐにでもマンションに帰ろう。

 そう思った瞬間、柾樹の背中から美しい声が届いた。「ごめんなさい。初めてのデートで先輩をお待たせしてしまうようでは後輩としては完全に落第ですねえ。許してくれはりますやろか?」。声のした方を振りかえると、髪をアップにし、京小紋の着物に紅葉のもみじを感じさせるような色調の道行のコートを羽織った楓が、少しはにかみながら立っていた。

「お、着物か、よう似会(にお)てるやないか。誰かと思たわ。」柾樹はそう言いながら、先週喫茶店で会った時とは全く別人かと思える様な大人の雰囲気を漂わせている楓に、少しどぎまぎした。

「似会てるやなんて、先輩はお口がお上手やこと」と言いながら、楓は柾樹の横に立ち、「ほな、行きましょか。柾樹先輩が逃げて帰りはらんうちに」と悪戯っぽくウィンクした。

「なんで僕が逃げて帰るんや」

「そやかて、今、そない思いはったでしょ」

「ちょっとだけな」

「萌さんが、逃がしたらあかんて言うたはりましたさかい」

「また萌さんかいな。僕は萌さんの期待通りに歴史を深読みでけへんよってにな」

「うちも萌さんの期待通りにはよう動きません。先輩との落第コンビで萌さんの思いに応えていけて、それで萌さんかて、まあしゃあないわ、と勘忍してくれはるんやったら、全力で頑張りますけどね」

「落第者同士か、それなら気楽でええわ。今日からは僕と楓とのヤジキタ道中双六てとこか」

「そうですよ、先輩。うちも最初に萌さんから頼まれた時は、鍛心庵さんてえらいカタ物なお方みたいな印象を持ってましたから、正直ちょっと気い重かったんですけど、ヤジキタでええんやったら、俄然嬉しいわあ」

「よっしゃ、決まった、それで行こう。その線で、今日最初の面談相手のおかめさんにお目にかかろうやないか」

「ほれ、さっきから向こうでこっちをごらんになってニコニコしたはりますよって、早速、あっちへ行きまひょか」

「よしきた」

 柾樹と楓はまるで幼馴染みの二人であるかのような軽やかな足取りで、本堂横に立って手招きしているおかめさんの方へと歩を進めた。今の今まで「萌なしには夜も日も明けぬ」柾樹だったのが、こんなに簡単に楓に乗り換えていいものか。萌はそうも言いたかったが、この国の先人達がこの国を世界の日本たらしめるために、どれほどの英知と努力を重ね、結果として今日の日本の礎を築きあげるに至ったか、という歴史的な事実と功績を、この二人にしっかりと理解させるという当初の目的の完遂のためなら、ま、いいとするか、と萌は苦笑しながら二人を暖かく包み込んでいた。

( 次号に続く )