堀川今出川異聞(47)

いわき 雅哉

 

柾樹の悩みの火種となりつつある中公新書「奥州藤原氏」  撮影 三和正明

柾樹の悩みの火種となりつつある中公新書「奥州藤原氏」  撮影 三和正明


 

第5章 東国の系譜

◇逢瀬の深まり(3)

 楓からの突然のメールで、彼女が柾樹に何を話そうとしているのかは気になるところだが、その前に、まずはこの時点で、この義経の奥州下りという有名な話の背景に一体どういう歴史的事実があったのか、について、少し整理しておく必要があるように思われる。

 無論、筆者にその全貌を語る資格も能力もないので識者の研究に待つほかないが、日本古代史の研究家 高橋 崇氏が2002年1月に発刊された「奥州藤原氏 平泉の栄華百年」(中公新書)は、この疑問に対して率直・明快にアプローチされ、読み手に合理的な納得感を抱かせる上で大きな貢献をされた好著のように思われる。

 もともと同氏は、伝聞や類推・想像を交えることで史実を曲解することを徹底的に排斥され、あくまでもその事件についてその当時に実際に書かれている貴族の日記や記録、文献での表現を通して、その史実の本質と背景を理解しようとされる研究スタイルを貫いておられるが、その結果として同氏は上述の本の195ページから196ページにかけて次のように明記されている。

「さて、義経の奥州下りの理由、時期、平泉での生活、等々については不明だらけである。その原因は、史料不足の一言に尽きる。」

 その史料不足の中にあって、同氏が同時代の重要な資料として重視されている「尊卑分脈」の「略伝」の中で語られている義経の最初の奥州下りと平泉での滞在に関する記述は次のようなものであると紹介しておられる。

「鞍馬寺に於て、東国旅人の諸陵助重頼(ショリョウノスケ シゲヨリ)と相語り約諾せしめ、承安4年(1174)3月3日の暁天、ひそかに鞍馬山を出で立ちて東国へ赴き奥州に下着し、秀衡館(筆者注・奥州藤原三代目の当主藤原秀衡の邸)に寄宿し5〜6ケ年を送りおわんぬ。」

 実は、義経の奥州下りに関する史料としての記述はこの一文に過ぎず、それ以外に義経の奥州下りのことに触れられている書物は、「吾妻鏡」であれ「平治物語」であれ「義経記」であれ、いわゆる後世の軍記物語であって相応に脚色が加わっており、史実として捉えるには無理があると、同氏は説かれる。

 しかるに肝心の史料として可とされる上述の「略伝」の記載にしてから、若き遮那王が東国の旅人重頼(同氏の研究ではこの人物の出自は源氏であろうと:上記著書197ページ)と何を相語り何を約諾したのか、また、承安4年の3月3日夜明けに鞍馬山を脱出したとして一体いつ奥州に到着したのか、そしてその時から5,6年の歳月を秀衡の元に身を寄せたとしてそれが具体的にいつのことだったのか、といった重要な事実が全く分からないものとなっているのだ。

 しからば金売吉次の存在はどうだったのか。同氏の上述の著書においても当然金売吉次のことに言及されているが、その存在は「平治物語」や「義経記」で取扱われているものの、吉次という人物の取上げ方がこの両書において大きく食い違っているという事実を明らかにしておられ、その事実だけでも史実・史伝として吉次の存在を捉えるには障害が大きすぎるという立場に立たれているようだ。

 と同時に、同氏は、当時の政治的環境下にあって奥州に乗り込んできた義経を迎えた藤原秀衡の心境を「平治物語」での記述を紹介しつつ、より客観的に見つめ直してみれば、ある種の厄介ものが転がり込んできたと判断せざるを得なかったのではないか、として、同書201ページに「義経は奥州藤原氏にとって『賓客』ではなかった。あえていえば『居候』であった。」と総括されている。

 そこまで同書を読み進んだ柾樹は首をひねった。「それなら、僕が楓と一緒に金売吉次に会った時に彼が口にしたセリフとは一体何だったのか。楓に会う前に、それに対する答をみつけ出しておかないと、楓が僕と会って話そうとしている中身にも支障が出るのではないか」。

 楓の方から会いたいとのメールをもらった喜びもつかの間、柾樹はやにわに焦りを覚えだして、吉次の屋敷でやりとりした時の会話の中身を必死に思い出そうとしていた。

( 次号に続く )