堀川今出川異聞(52)

いわき 雅哉

 

楓が指さした場所は京都での柾樹の氏神様「今宮神社」のすぐ北東の一角だった。 撮影 三和正明

楓が指さした場所は京都での柾樹の氏神様「今宮神社」のすぐ北東の一角だった。 撮影 三和正明

第5章 東国の系譜
◇ 逢瀬の深まり(8)

 喫茶店のテーブルの上に楓が広げた地図は12面折りになっていて、広げると縦50センチ、横70センチは優にある大きなもので、その表(おもて)面には大徳寺を中央北限に、東寺を中央南限にした京都の中心部が収められており、地図の左上には「歩いて楽しいまち 京都まち歩きマップKYOTO MAP for Tourist (注)」と書かれている。

(注)その後の改定で現在は「おいでやす京都 京歩きマップ KYOTO MAP for Tourist」と改称されている。

 最初に楓が「先輩、ここです。ここを見て下さい」と人指し指で示したのは、その地図の表(おもて)面ではなく、そこには収まりきらない京都郊外の「大原」、「鞍馬・貴船」、「洛北」、「高尾」、「嵐山・嵯峨・松尾・桂」、「山科・醍醐」、「伏見」、「西山」、「淀」、「京北」の10のエリアが巧みに配置された裏面の方の「洛北」と書かれた部分だった。

 なにしろこれだけの地図情報がコンパクトに掲載されているため、当然そこに書かれている文字は非常に細かくて見にくい。その地図の中のさらに細かい一か所を楓の人さし指が「ここですよ、ここ」と言わんばかりに差し示しているため、柾樹はぐっと顔を近づけてその部分を凝視した。楓も同じように顔を近づけたので、頭がこつんとぶつかった。柾樹は反射的に「ごめん」と身を引いたが、楓は一向に気にせず目だけを柾樹にむけて茶目っけたっぷりにウィンクして見せた。柾樹はもうそれだけで今日逢った意味はあったと嬉しくなり、地図を確認するという本来の目的を危うく忘れそうになった。

 柾樹は照れ笑いしながら、改めて地図に書かれたその表示を読みとって思わず「エっ」と声を上げた。そこには「源義経 産湯の遺跡碑」と書かれてあったからだ。

「何やて、楓。義経公はここで生まれはったと言うんか。」

「はい、先輩、そうなんです。ここが義経公が産湯を使われた場所、つまりここでお生まれになった、そう書かれた石碑がここに立っている、とこの地図には記載されているんですよ、先輩」

「ちょっと待て、楓。牛若丸はほんまにこんな場所で生まれはったんか」

「そう書いてありますからねえ、先輩」

「そんなに落ち着いて『そう書いてありますからねえ』などと言うてる場合か、楓。目え見開いてよう見てみい。この場所は大徳寺のすぐ北、つまり僕が今借りているマンションがある堀川今出川の氏神様 今宮神社の境内の真東やないか。ちゅうことは、や、そこからそのまま南へまっすぐに下がったら正に義経公が奥州へと旅立つに当って道中の安全祈願をしたとされる首途八幡宮に突きあたるという位置関係にある場所やないか。」

「先輩、そんなに興奮しないで下さい。だから以前に会って話を聞いて下さい、と申し上げたのに、ご自身の悩みばっかりお話されて、楓は怒って大阪に帰っていったんですよ」

「それは言うな。いやな、僕が楓に聞きたかったのは、どういう発想でこんな凄い場所を見つけ出したんや、ということなんや」

「しからば楓がお答えしましょう」

「なんや急に偉そうに」

「ご免なさい。実はですね、以前に先輩と首途八幡様にお参りした時に、先輩が『鞍馬山に囚われの身だった若き牛若丸が、数々の危険を冒して脱出を敢行したというのに、奥州出発に際してわざわざこの神社に詣でて道中の安全祈願をなぜする必要があったのか。もっと言えば、どういう素性の人物か分からない金売吉次に脱出後の自分の運命を託して奥州に行く気になったのは何故なのか、を裏付ける材料が明らかにならないと、にわかにはこの神社への道中安全祈願をしたという史実を信じることはできないよな』とおっしゃっておられましたよね」

「確かに言うたよ。その思いは今も少しも変わってへんよ」

「ならよかった。楓はあの日の先輩のあの言葉がずっと気になっていて、なんとかそのヒントを見つけ出さねば、と思っていたんです」

「楓、君は凄い。さすがは美術館の学芸員や。楓がみつけたこの地図の情報こそは正にその時の僕たちの疑問を解く重要な手掛かりたり得るものやないか」

「先輩にそう評価していただけたのなら、楓は天にも昇る思いです」

「人が人を信じる動機というのは案外単純で簡単なことが多い。昔から同郷のよしみとはよう言うたもんで、郷里や出身校、近所同士、友達の友達というような繋がりが大きなきっかけになることは多いもんや。そう考えたら、人たらしで鳴る金売吉次ほどの人物なら、牛若丸の信頼を得るに当って、吉次の住まい、つまり首途八幡宮の隣接地と、牛若丸の生誕地とがごくごく近くにあったと言う話題を巧みに使い、初めて出会った牛若丸に吉次という人間を首尾よく信用させた、と見るのは先ず間違いないと考えてもええわなあ」

「そうですよね、先輩。楓も何か地理的な親近感がヒントになるんではないか、と思って、この地図を隅から隅まで探したんです」

「そやったんか、楓」

「ええ、でも地図の表(おもて)面には何度見てもそれらしきものがない。半ば諦めかけて、念のため裏面に何かヒントはないか、と考えて、遂に牛若丸誕生の地という場所を見つけ出したんです」

「すごいやないか、楓の根気と洞察力は。たしかに牛若丸生誕の地と直線で結ばれている首途八幡宮やからこそ、見知らぬ国 奥州への旅立ちに当って牛若丸が敢えて危険を冒してでも道中の安全祈願をしたという説明は実に腑に落ちる」

「先輩にそう言っていただいたら苦労した甲斐がありました。楓は本当に嬉しいです。だから先輩、今すぐにこの現場に参りましょう。早足で歩けばすぐに行ける場所です。残ったコーヒーをすぐに飲みほして下さい。」

「わかった、楓。せやかてそないに急かすなよ、せっかく逢瀬を楽しんでるんやさかい。」

「先輩、逢瀬は歩きながらでも楽しめます。さ、出ますよ」と言うなり、楓はカウンターのママのところに歩み寄り、さっさとお勘定を済ませる。「こら、こら、楓、勝手なことしいな。お勘定の支払いは僕の担当やねんから」と柾樹は焦って立ち上がる。

「急にどないしましてんな、お二人さんとも」とママが怪訝そうな表情で楓に対応する。「あーあ、ママて。楓からお金を受け取ったらあかんて言うてるでしょ。僕が払うんやさかいに、それは楓に返したって」「いや、うっとこはどっちからもろたかて別にかましまへんよって」「そうはいかんのや、ママて」「先輩、現場に急行しましょう、楓は遅いことは嫌いです」「ちょっと待ちいな、楓」「何ですねん、現場に急行、て、お宅ら警察でっか」「違うよ、僕らはねえ」「はいはい恋人同士ですねやろ」「これ、ママ、何ちゅうことを言うんや」「何が、何ちゅうこと言うんや、や。ホンマは嬉しいこと言うてくれて有難う、て、顔に書いたあるわ」「ちょっとホンマに怒るで、ママ。おい、楓て、待て言うてんのに、ちょっと待ちなさい」「先輩、ここは待ってる場合じゃないですよ。早くして下さいよ」・・・・喫茶店の出口は大混乱となった。

 やっとの思いで表に出た二人は、堀川通りから今出川通りを西に折れ、智恵光院通りで北に折れて、首途八幡宮を左に見ながらどんどん北へと歩を早めた。ほどなく北大路通りにぶつかると目の前が古刹大徳寺だ。早足で歩く二人は、いつ、どちらからそうしたのかもわからない内に、優しく手を繋ぎ合っていた。柾樹はそれを喜びながらもワザと気がつかないふりをして楓の掌を優しく包み込んでいた。

「先輩、あっという間に大徳寺の山門に着きましたね。」

「ほんまや、あっちゅう間やったなあ、楓」

「あと一息で現場です、先輩」― 楓にそう言われた柾樹は、そんなに早く着かなくたっていい、別に義経公の誕生の地がどこにあろうが、ずっと楓と手を繋いだままの状態で今日は歩き通したいという気分になっていた。

 そんな柾樹の気持ちを知らぬ気に楓が言う。「先輩、ホラ、氏神様の今宮神社ですよ。ここから少し東寄りに上りましょう。そしたら直ぐに着くはずです」

 楓と手を取り合って歩いている柾樹にすれば、目的地は遠い方が良い。心の中で「まだ着くな、早すぎる。なんなら道を間違えて行き過ぎろ」と叫びながら、気のない返事を返した途端、楓が叫んだ。

「あったあ、ありました、先輩、この石碑です。ホラ、ここ」

「どこにあんねんな、その石碑ちゅうのは」― なかば投げやり気味な表情の柾樹の目の前の誠に意外な場所にいかにも由緒ありげな石碑が建っていた。

( 次号に続く )