堀川今出川異聞(54)

いわき 雅哉

 

「非情にも柾樹に喫茶店行きを促す交差点標識」 撮影三和正明

第六章 予期せぬ暗転

◇ 一本の電話(1)

 柾樹に寄り添うようにして楓がついてくる。その心地よさに柾樹は喫茶店になど行く必要もなくひたすら都大路を二人きりで歩き続けたい思いに駆られていた。が、無情にも頭上には「堀川今出川」の交差点を示す大きな標識が掲げられている。いつもの喫茶店に行くためには今歩いてきた今出川通りから右に折れて堀川通りに進まねばならない。当然、楓は堀川通りを南に下がって喫茶店の方に進もうとし、片や柾樹はわざと今出川通をそのまま東に進もうとした。

「あれ、先輩、いつもの喫茶店に行くんじゃないんですか?」と楓は怪訝そうに柾樹の袖を引っ張る。

「いや、このままずーっと楓と一緒に歩いていたいんだ。目的地から目的地に移動するだけじゃなくて、その前後の余韻を楽しみたいんだよ。」

 一瞬、楓は頬を染め、小さな声でつぶやく。「私もです。でもお忙しい先輩に我がままを言うわけにはいかないでしょ。」

 そんな楓が愛しくて柾樹は堀川通りに出ようとしている楓の手をわざと自分の方に引っぱり寄せた。楓はよろけながら柾樹にもたれかかる格好となる。これが屋内なら柾樹は間違いなく楓を抱きしめていただろう。が、往来の真中ではさすがに気が引けて「わかった、わかった、喫茶店にいこう、楓」と体を南に向けた。今しがた柾樹にもたれかかってきた時の楓の容貌の美しさと仕草の可愛さに、柾樹の鼓動は破裂しそうなほどに高まっていた。

「あら、淡見さん、今日はえらい遅いお出ましで」

「ええ、ちょっと寄り道してたんで遅うなってしまいました。おなかも空いてるんで温かいコーヒーと美味しい焼きうどんでもいただきましょうか」

「楓さんもおんなじでよろしいの? そら、エエに決まってますわなあ、淡見さんが言うたはるんやさかい」

「ママ、また余計な事を言う。急いでるのは、楓が大阪に帰らんとあかんさかいや」

「あらあらそうなんや、今日もこれから大阪に帰りはるん? たまには泊まっていけよ、て言うてくれてもええのになあ、楓さん。淡見さんはホンマおなごの気持ちが分からんお人やさかい、困った先輩でんなあ」

「これママ、何を言うてんの、こんな純情な子に」

「ハイハイ、わかりました。淡見さんが思たはることをおばちゃんが代わって言うたげてんねんさかい、文句やなしに礼言うてほしいくらいやわ」そう言いながらママはコーヒーを点て、そばで笑って話を聞いている妹のサッちゃんが焼きうどんを作っている。

 とまた、ママが口を開く。

「そんで今日のお二人はどこまで行ったはったんですか」

「今出川智恵光院通をちょっと上った首途(カドデ)八幡宮まで」

「へー、あの牛若丸が奥州に行かはる時に道中の無事を祈っていかはったて言うとこ?」

「そうそう、ママ、よく知ってるね」

「知らいでかいな、なあ、サッちゃん」

 言われた妹のサッちゃんが答える。

「そうやあ、うちらは、あこから大部上がったとこで生まれて育ちましてんもんなあ」

「ええ? まさか紫竹?」

「そうやあ、その紫竹牛若町で生まれましたんや」

「そんなら牛若丸とおんなじやないの」

「ようご存じで。あの辺に行きはったら牛若丸が使いはったちゅう産湯跡や、へその緒を埋めた塚みたいなとこが残ってましたやろ」

「うわーびっくりしたなあ、僕ら今日そのあたりを回ってきたんですよ」

「エー、ようあんなとこ見つけはりましたなあ。普通、あんなとこまで見に行く人は居たはりませんで」

「そやろなあ、実際あのあたりを見て回ってる人なんて僕ら以外にはだーれもいませんでしたわ」

「それが普通です。さ、熱いコーヒーと、サッちゃん御手製の焼きうどんが出けましたで」

「おお、おいしそうや。楓、さ、食べよう」

「はい、先輩」

 空腹だったこともあって二人はフーフー息をかけながら熱い焼きうどんを口に運ぶ。柾樹はそんな楓の表情を見ながら、可愛いな、との思いを新たにする。そんな状況が続くことで柾樹の心は落ち着きと安らぎを得て、ほのぼのとした幸せを感じとっていく。

 と、それをかき消すようにママがまた口をさしはさむ。

「そやかて一体どんな理由で紫竹くんだりまで行ってきはったん?」

 つかの間の幸せを噛み締めていた柾樹は、またかといった表情でママの方を向いて会話を続けた。

「それはねえ、まあ言うたら楓のお手柄ですねん」

「楓さんのお手柄? そらどういうことやのん?」

「いや実はね、先日、二人で首途(カドデ)八幡宮に行った時のことやねんけど、なんでこんな場所で牛若丸が奥州までの道中の安全祈願をしたのか、という理由が理解できなくて、楓に何かヒントになるようなものはないかな、と話したら、彼女が必死になってこの近辺の地図を見てくれて、そのヒントになる場所というのはここではないですか、と教えてくれたんですよ」

「なに、首途八幡宮に行って、安全祈願した理由が分からんかったて?」

「はい」

「いや、普通はあそこで道中安全祈願をしはった理由なんて誰も考えませんでえ。そら頼みたいから頼みはっただけと違うの。ようそんな理由まで追及しはるなあ」

「そやなしに、京都中にお宮さんはいっぱいあるのに、何であの場所のあの神社で祈願しはったんか、ということですよ」

「ほんで楓さんは、先輩からそんな無茶な質問をされたさかい、必死になってそのヒントとかいうもんを見つけはったわけですか」

 急に矛先を自分に向けられた楓は、びっくりしたような表情で、ママの質問に答えた。

「そんなにたいそうなことではないんですが、たしかにあの場所で祈願されたからにはそれだけの必然性があったはずだ、と私も思ったものですから、地図を広げて近辺にヒントのようなものが有るのではないか、と探しただけなんです」

「まあまあほんまに息の合うたコンビやねえ、お宅らは。それに普通歴史好きの彼氏がそんなどうでもええ疑問をもちはったかて、世間一般の彼女やったら別に何とも思わんもんですけど、楓さんはちょっと違うんやねえ。それはやっぱり淡見さんが好きやよって?」

「こら、ママ、しょうもないこと言うもんやないで。彼女はこう見えても美術館の優秀な学芸員なんやからな」

「淡見さん、そないムキになりはらんでもよろしい。楓さんが優秀な学芸員や、ちゅう話は前にも聞きました。それを言わはる時の淡見さんの鼻の穴はいつもピクピク動いてますよって、よう忘れませんわ」

 そんな風に自分の事を言われて少し頬を赤らめた楓の携帯電話が鳴ったのは丁度その時だった。

 他にお客はいなかったが、楓は「はい、私です」と辺りに憚るような小さい声で応答した。それからしばらくは電話の主が一方的にしゃべっていたようで、楓はただうなづいて話を聞いているだけだったが、やがて「で、要は、それはもう確定ってことなんですね」とやや声のトーンを強めて電話の主に問いかけた。おそらく相手は「そうです」とでも言ったのだろう、「そうですか、分かりました」と答えるや否や、楓の瞳に不意に大粒の涙があふれ出してきた。

 柾樹もママもサッちゃんも、それまでの楓の雰囲気が一気に変わったのを感じて、お互いに顔を見合わせた。「どないしはったんやろね」とママが声をひそめて柾樹に言う。

 柾樹はいつもとは違いすぎる楓の様子に動転し、たった一本の電話が楓の様子を一変させた現実を消化できず、心の動揺を抑えながら、楓が電話を終えるのをじっと待った。

( 次号に続く )