堀川今出川異聞(56)

いわき 雅哉

「楓が柾樹に同行を求めた堀川通沿いの晴明神社の鳥居 撮影 三和正明」

第六章 予期せぬ暗転

◇ 一本の電話(3)

 もう夕闇が迫っている堀川通の信号機の前で、楓が今から柾樹と一緒に行きたいと告げた場所は、「晴明神社」だった。

 言うまでもなくそこは、平安時代に朝廷に仕えた稀代の陰陽師安倍晴明をお祀りしている神社であり、確かに楓の言う通り、今、二人が立っている場所から堀川通を渡ると、右手に西陣織会館が、左手方向に少し行ったところに晴明神社の鳥居が立っている。

 が、その神社の名前を聞くや否や柾樹が腰を抜かさんばかりに驚いたのは、実は、柾樹は何が怖いと言って誰もいない夜の神社仏閣に入ることほど不気味なことはない、との思いを強く持っていて、すでに日が落ちたこんな時刻に真っ暗闇の境内に入っていくことに強い忌避感があった上、男の自分がそれほどまでに怖がることを、この若くて美しい楓が平然と言い出す中に「楓はやはり異界のおんな」との思いを強く抱いたからだ。

 もともと喫茶店の2軒おいて隣にあるマンションに住んでいた柾樹にとって、晴明神社は最寄りの歴史的謂れのある場所であったから、昼間には何度かその境内に入ったこともあった。だから境内全体が細長くて狭く、鬱蒼たる大木が生い茂って昼なお暗い広大なものではないことなど百も承知だったのだが、それでも夜の神域には近づきたくない思いがあった。加えて、この神社の境内には、かつて安倍晴明が駆使した数々の霊力発揮の逸話が絵物語風に解説された掲示板が掲げられており、そもそもそういう特異な能力の持ち主を祭神としてお祀りしている神社特有の雰囲気が感じられる場所でもあるので、日が沈んでから敢えてそこに入っていくことにはおのずと強い抵抗感があったのだ。

 柾樹が人一倍こうした思いや感覚を抱くようになった背景には、そもそも柾樹が生来の怖がりであることに加え、さらにそれを助長するような一つの経験があったからでもある。もうかれこれ四半世紀も前のことだが、比叡山延暦寺で開催された「一日回峰行」という催しに柾樹が誘われて参加した時のことだ。3日間のスケジュールで朝の勤行や座禅、講話、写経などのスケジュールを消化し、いよいよ最終日の丑三つ時過ぎから「千日回峰行」の修行コースと同じルートを踏破するこの催し最大の山場がやってきた。漆黒の闇の中、懐中電灯を手に全員宿坊を出立し、歩き始める。最初は周囲の仲間との会話も聞こえるような雰囲気だったが、坂道を結構なスピードで歩くので、やがて無駄口を交わす者もいなくなる。

 で、いよいよここからは後戻りできないという場所にまで来ると、案内人の僧侶が言った。「ここから先はもう車も入れない山中に分け入りますので、体調等に不安がある方や調子のよくない方はここで待機している車で宿坊にお帰り下さい。」

 ここまではまだ序の口もいいところだったのだが、それでも平素山道などを歩き慣れていない都会人にはきつい行程だったので、そこそこの人数が続行を断念し、もはや後戻りできないことを覚悟した人たちだけが一塊となっていよいよ本格的に山中に入っていくこととなった。

 漆黒の闇の中でこの先挫折した時にはどうなるのだろうか、との不安な思いがそれぞれの心の中を往来する独特の雰囲気が辺りに充満する。誰一人声を立てるものなどいない山中に、鳥とも獣とも知れぬ奇怪な鳴き声が闇をつんざく。もしたった一人でこんな環境に取り残されたなら、到底耐えられない不気味さが一人一人の身に襲い掛かる。

 そんな中で、案内人の僧侶が放った言葉は今なお柾樹の耳から離れない。

「それでは皆様、只今から出発いたします。ここからはお一人お一人の体調をご自身でよくコントロールしていただき、決してご自分のペースを乱して早く歩きすぎたり、ご無理をなさらないように心していただき、最終目的地まで頑張っていただきたいと思います。」 ここまでは当たり前のアドバイスだ。柾樹の耳に今なお残っているのはそのあとに僧侶が放った次の言葉だった。

「なお、今から申し上げますことは絶対に守っていただきたいので、宜しくお願いします。それは次の休憩地に到着するまでの間は、一切言葉を発しないでいただきたい、ということです。と申しますのは、言葉を発しますと、この山中に充満している魑魅魍魎の類がたちまちその方に取り憑きます。従いましてどうか一切おしゃべりになりませんよう、くれぐれもお願い致します。」

 もともと参加者全員が真剣な表情になっているところに語り掛けられた僧侶のこの言葉で、静寂感は怖いほどに深まっていく。「言葉を発したら山中のすべての魑魅魍魎に取り憑かれる」――― そんな恐ろしいことになったらどうしよう。柾樹は素直に僧侶の言うことを聞く決心をした。

 考えてみれば、しゃべりながら歩けばそれだけ体力の消耗も激しくなり、厳しい回峰行を貫徹する上では大きな障害となるから、こうした言い回しで警告することにした僧侶の知恵だったかもしれないが、柾樹はその言葉通りに信じ込んだ。その思いは今も変わらない。そう感じさせるだけの現実感が漆黒の闇の中には充満していたからだ。そもそも怖がりで弱虫だった柾樹が「闇」というものに強い恐怖心を抱くようになったこの体験を通じて、柾樹は自分が感じとるものに真理が宿っているという考え方を一層強く抱くようになった。だから、こんな時間に楓が晴明神社の境内に一緒に入りたいと言った時には、腰を抜かすほどに仰天したのだった。

 が、楓にはそんな詳しい経緯など一言も発せずに、「こんな時間から晴明神社に行くのはやめとこ。もう遅なるさかい、京都駅行のバスに一緒に乗ろ。駅まで送るよって」とだけ言った。

 楓は、いつもの穏やかな楓に戻っていて、素直で麗しかった。

「先輩、わかりました。でもすぐにバスで京都駅まで行ってしまわずに先輩と少し一緒に歩きたいんです。歩きながら先ほどの電話の内容を先輩にお話ししようと思います。」

「せやせや、せやったねえ。いきなり晴明神社に行くなんて楓が言いだしたさかい、僕も気が動転して、そんなことがあったことさえど忘れしてしもてたやないか。」

「ごめんなさい。それと楓がなんで晴明神社に先輩と一緒に行きたいと言い出したのかも、お話ししないといけませんものね。」

「そやそや、そうやで。なんでいきなり晴明神社が登場してくるんや、と解せんかったさかいなあ。ただ、なんとなくそっちの話は聞くのん怖いけど、教えてもらわんわけにはいかんわなあ。」

「ですよねえ、先輩。じゃあ話は決まりましたから、今からゆっくりと堀川通を南へと『ホリブラ』と参りましょう。」

「よっしゃ、楓、ほな出発や。歩きがてら、その晴明神社のことで、あの喫茶店のママから聞いたことを話ししようか。」

「お願いします、先輩。」

「なんでもママの話によればな、今はようけの人が参拝に訪れてきて常に賑わいを見せてる晴明神社さんやけど、以前は知る人も少のうて寂れた感じの神社やったらしいわ。」

「本当ですか。今は女性には大変な人気ですのにね。」

「そうなんや。そのきっかけになったんが数年前に大ヒットした映画「陰陽師」のおかげやったらしい。あの映画のおかげで境内もすっきりと整備され、パワースポットとして女性の人気に火が付いたんやてえ。」

「そうだったんですか。今ではアイススケートのチャンピオン羽生選手が安倍晴明の醸し出す世界を見事に表現して演技の最後に両手を左右にぴんと広げて、決めポーズをしますものね。」

「そうやなあ、ああいう風にブームになったんも安倍晴明のパワーのおかげかもしれんなあ。せやせや阿倍晴明が自分の手足として何人かのしもべを抱えてた、っちゅう話は知ってるか?」

「いいえ、知りません。」

「その連中が安倍晴明の奥さんから気味が悪いと嫌がられたんで、同じ家に住まわせるわけにいかず、一条戻り橋の橋の下に住まわせてた、っちゅう話も今に伝わってるやそうや」

「へえ、そんなところに住まわせていたんですか。安倍晴明は怖いもんなしだと思っていましたが、奥様には頭が上がらなかったんですね。今度、お話をする時には、ぜひ今のことを聞かなきゃ」

「ええ?何やて、楓、今、なんて言うた?」

「あら、先輩、途中で絶対に楓から、はぐれないようにしてくださいね。」― そう言うなり、楓は、柾樹の質問を無視して、すっと柾樹の手をとった。柾樹は、楓の最後の一言に違和感を覚えてその本意を確認しようと質問したものの、その質問を無視した楓にいきなりその手を握りしめられた。

 柾樹は、ええい、もうこうなったら、実は、楓が、異界の者であろうが、魑魅魍魎であろうが、なんでもかめへん、なんでも来いじゃ、と、その手をしっかりと握り返した。

( 次号に続く )