堀川今出川異聞(57)

いわき 雅哉

「無言の圧力を放つ晴明神社境内の安倍晴明像 撮影(© picochi – stock.adobe.com)」

 

第六章 予期せぬ暗転

◇ 一本の電話(4)

 夕闇が一段と深まってきた堀川通の晴明神社の鳥居の前で楓からギュッと手を握りしめられた柾樹は、憶病者のくせに強がって言った。
「楓、今から晴明神社にお参りしたいと言うのならそれでもええよ。可愛い楓にせがまれたらどんなことでも受けて立たんとなあ」

「先輩、どうなさったんですか、急に。時間も時間だから晴明神社はまたにしようと今しがた仰ったくせに。でも、もういいんです。そんなことより楓は一緒に堀川通を先輩と手をつないで歩きながら、聞いてもらいたいお話をさせてもらいたいと思いますので。」

 楓にそう言われて柾樹は内心ほっとしながら、この機を逃さじと楓の手をどんどん引っ張って少しでも晴明神社から離れさせようと堀川通を南に向かって歩を進め、やむなく楓も柾樹と並んで歩き始めた。柾樹がともかくも急いで晴明神社から遠ざかろうとしたのは、晴明神社の境内にある安倍晴明像がなんとなく二人をじっと見ているような気がしたからだ。鳥居からそこそこ離れたのを確認したところで、ようやく柾樹は気になっていた楓の話を聞く気になって、口を開いた。

「ところで楓、肝心の話やけどな、喫茶店でかかってきた一本の電話はいったい何やったんや。急に泣き出したりしたんでママも妹さんもびっくりしとったやないか」

 そう聞かれた楓は、急いだり立ち止まったりを繰り返す柾樹の様子に少し戸惑いながらも、柾樹の質問に対してゆっくりと話し始めた。
「先輩、楓はすごく迷っているんです。どうしようかと」

「迷てる? 何を迷てるんや。さっきの電話の内容に迷うようなことがあったんか」

「はい、楓は、あの電話で自分の迷いに結論を出さなければならなくなりました」

「自分の迷いに結論を出さないかんて? そらまた切羽詰まった話やないか」

「その通りです。楓が来月早々にこの国を離れるか、この国に残るか、という正に切羽詰まった迷いなんです」

 さりげなくそう話す楓に柾樹の表情が変わる。

「なんやて、楓。なんで楓がこの国を離れるか、残るかの決断をせんといかんというのや。一体全体なんでそんな話になってるんや。そもそもどこの誰がそんな決断を楓に迫ってきてるというんや」

「今、勤務している美術館の上司からです」

「ええ、美術館の上司からやてえ?今、楓が学芸員として働いてるあの美術館の人が海外へ行けと言うてるんか」

「はい」

「はい、や、ないやろ、楓。なんで急にそんな話になんねん。そもそもなんで楓が海外にいかんといかんて言うたはるんや、その美術館の人は」

 どうもただならぬ話になっているらしい雰囲気を感じとって急に息せききったように畳みかける柾樹に、楓はうつむいて押し黙った。柾樹の手を握っている楓の指がかすかに震え出した。柾樹はイライラとドギマギがまじりあった思いで楓の顔を覗き込んだ。泣いている。あの楓がさめざめと泣いているのだ。

「楓、なんで泣いてるんや」・・・柾樹の声に楓は自分の体を柾樹に預けるようにしながら、蚊の鳴くような小さな声で囁いた。「楓はずっと先輩と一緒にこの日本に居たい・・・」

「せやから、なんで日本におられんようになるんや、て、聞いてんのやないか。きちんと僕の顔を見て説明してみい、楓」

 泣きじゃくる楓を半ば叱りつけるようにして語り掛ける柾樹に、楓はようやく重い口を開いてことの経緯を話し出した。

「楓は、先輩に会うまではずっとある大きな夢を抱いていました。それは、楓が美術館の学芸員になる前からも、なってからも、変わらずずっと胸に秘めて大切にしてきた、とっておきの夢でした」

 そこまで言うと楓は深呼吸して目を閉じる。柾樹は次の言葉をじっと待った。

「その夢とは、日本の学芸員として日本の文化芸術に無上の誇りを胸に秘めながら、世界有数の美術館であるルーブル美術館との交換学芸員になり、人々の心を打つ芸術の普遍性とは何かについての知見と感性を磨きたいという思い、やった・・・・」

「先輩と出会うまでの数年間、うちを支えてきたのはその夢であり、情熱やった・・・」

「そしてその夢がとうとう叶うた。先輩に会うまでは、決まったらその足ですぐにでもパリに飛びたい一心やった。命を賭けたその夢がついに叶うて来月にも日本を離れんといかんということになったというのに、あれほど憧れ続けてきた道が開けたというのに、うちは、行くべきか断るべきか、今、ものすごう迷てる」― そこまで言うとまた楓はギュッと柾樹の腕にしがみつき、深いため息をついた。楓の大きく美しい瞳が涙で潤んで憂いを一層際立たせている。

 長い沈黙の末に楓は口を開いた。「いやや・・・。うちはいやや、先輩と会えんようになるやなんて、うちは絶対にいやや、絶対にいややねん・・・」 初めて聞く楓の大阪弁丸出しのトークと理性をかなぐり捨てて駄々をこねながら柾樹の腕を揺さぶる楓に、柾樹は浪速女のいじらしさと可愛さを感じ取って思わず楓を抱きすくめた。少し間をおいて柾樹が優しく語り掛けた

「楓、さっきの電話はそんな名誉な話やったんか。泣いてる場合やないやないか。もろ手を挙げて万歳三唱せんといかん話やないんか、えー、楓」 

 だが、そう励ます柾樹の胸にじっと顔をうずめて嗚咽を繰り返す楓に対して、人生の先輩として諭さねばならない次のセリフが柾樹の口から出てこない。本来なら「何を言うてるんや、楓。今しかないこのチャンスを逃がしてどうすんねん。まだまだ若い楓やないか。僕のことなんか忘れて必死に芸術の勉強に全力を傾けんとあかんやないか」と言わねばならないはずなのに、この可愛くて可愛くてしかたのない楓が、こんな名誉な、こんなにも熱望してきた思いが結実したという人生最大の朗報を前に、欣喜雀躍するどころか柾樹と離れたくないと言って駄々をこねてさめざめと泣いている現実を前に、先輩たる自分が我と我が手で楓の未練を断ち切ってやり、その若い才能をこの国のため人類文化のために役立たせることこそが自分の使命だと判断し行動することに躊躇している自分がいるという現実にただただ立ちすくんでいた。

 皆人が手に入れたいと思うほどに素晴らしい気品と優しさに満ち満ちた人格の持ち主にして、すれ違う人が例外なくその美貌に振り返るほどの、言ってみれば「ヤスミコ」たる楓が、年齢差も大きくハンサムでもなければ力もなく、颯爽ともしていなければ粋さもなく、ましてや妻子までいる自分に道ならぬ思いを寄せてくれている嬉しさをかなぐり捨ててでも一人の可愛い後輩の将来を切り開いてやるべき立場にある自分の、人としてのあるべき幕引きを考えようともしない浅ましい自分をそこに見て、柾樹の心は乱れた。

 そんな心の葛藤に悩まされながら、柾樹はふと堀川通に沿って流れている小さい水路の上に架かっている一本の橋に目をやって慄然とした。そうか、これは狐狸の仕業だったのだ。ひょっとしたら、柾樹の胸に顔をうずめて泣きじゃくっている楓を引き離してゆっくりとその顔を覗き込んだ途端、楓がいきなり般若の表情で裂けよとばかりに大きな唇を開いてカンラカンラと笑いながら「バーカメー」と捨て台詞を残して天空に姿を消すかもしれない。いつのまにか晴明神社から少し南に下ったある場所にまで来てしまっていたことに気が付いた柾樹は、甘美な思いから一転して自らのこの確信が間違いないと思い始め、楓を突き放そうとした。

( 次号に続く )